二二八事件

家永真幸

1947年2月28日に発生した、台湾住民による反政府の政治暴動に対し、中国国民党(以下、国民党)の蔣介石政権が苛烈な武力鎮圧により多数の市民を逮捕・虐殺した一連の事件。第二次世界大戦後の台湾における「本省人」と「外省人」の間の対立(「省籍矛盾」)を決定づけた事件として知られる。

1945年に日本による台湾統治が終了すると、台湾は中華民国の施政下に入った。本省人とはそれ以前から台湾に定着していて日本統治を経験した漢人であり、外省人とはそれ以降に中国大陸から台湾に移住した住民の総称である。本省人は台湾において約50年間にわたり日本人として生活してきたのに対し、外省人は中国大陸において中華民国の国民として日本との戦争を戦っていたという点で、両者の歴史経験は大きく異なっていた。

1947年2月27日、台北市内の街頭のヤミ煙草売りの取締りに際し、威嚇発砲で市民が1人死亡する事件が発生した。翌28日、抗議に向かった市民に対し政府は機銃掃射をおこない、多数の死傷者が出ると、これに激怒した市民が街頭で外省人を殴打するなど暴動へと発展する。一部市民が放送局を占拠して台湾人の決起を呼びかけると、政治暴動は台湾全土に波及した。台湾社会のエリートらは事件処理委員会を組織し、政治改革案をまとめたが、国民党は中国大陸から援軍を派遣するなど大規模な武力掃討をおこない、残忍な処刑による死者も含め多大な犠牲者を出した。 1950年代から80年代にかけては、国民党政権により反体制的な言論や政治活動は厳しく取り締まられていたため、二二八事件もそれを語ることさえ危険だと思われるほどタブー視されてきた。しかし、政治体制の民主化が進み、政治活動の自由が徐々に拡大していった1980年代以降、二二八事件の真相解明を求める市民の声が次第に社会を動かしていく。国民党の責任追及をめぐってはいまだに摩擦が残るものの、今日の台湾では犠牲者を哀悼し、国家による人権蹂躙を許さないという価値観が定着している。1995年2月28日には李登輝が総統として初めて事件の犠牲者とその家族に公式に謝罪した。今日では二二八国家紀念館、台北二二八紀念館、嘉義市二二八紀念館の3つの博物館があり、2月28日は「和平紀念日」という国定紀念日として休日になっている。また、かつては本省人と外省人の間の感情的な対立が深刻な亀裂となっていたが、世代交代が進んだこともあり、近年ではそれが社会の分断軸として意識される傾向が薄らぎつつある。

もっと知りたい方のために

・何義麟『台湾現代史――二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』平凡社、2014年
・平井新「移行期正義」(若林正丈・家永真幸編『台湾研究入門』東京大学出版会、2020年)所収
・財団法人二二八事件紀念基金会、陳儀深・薛化元編『二二八事件の真相と移行期正義』風媒社、2021年
・若林正丈『台湾の歴史』講談社学術文庫、2023年
・家永真幸『台湾のアイデンティティ  「中国」との相克の戦後史』文春新書、2023年

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