二二八事件前後、社会エリートが提出した改革要求は、日本統治期の自治運動の目標でもありました。1920-30年代、台湾知識人は文化啓蒙運動や自治運動、農民運動などを展開しましたが、戦時期に入ると、すべての改革要求が葬り去られました。戦後、知識人はそれまでの異民族による統治に代わる「祖国」の到来に大きな期待を持ち、民主化や社会改革の要求を提出しましたが、その回答は武力鎮圧と中国化教育でした。展示では、このようなシナリオで事件の真相が説明されています。
この建物は日本統治期の台北放送局です。戦後、すべての放送局は政府に接収され、台湾広播電台と改称されました。事件発生後、台北住民は直ちに新公園内の放送局に押しかけ、全島へ台北の騒乱状況を放送せよと要求しました。また、政府高官と議員はほぼ毎日放送局に来て、全島へ知らせたい情報を放送しました。そのため、年月を経ても、ラジオ放送の記憶が依然として年長者に残っていたのです。放送局は歴史の現場の建物だったわけで、これが記念館に指定された主な理由です。また、台北駅と総統府に近く、交通が便利なことも理由の一つでした。
日本統治下の1908年、台北公園が開設され、北側に児玉・後藤記念館(現・国立台湾博物館本館)が建てられました。円山公園の後に落成したので、その後、台北新公園と改称され、戦後もそのまま「新公園」の愛称で市民に親しまれました。1996年、園内に二二八和平紀念碑を設置、公園も二二八和平紀念公園と改称し、翌年、台北二二八紀念館が開設されました。
何義麟提供