陳澄波(ちん とうは)

大岡響子

(日:ちん とうは、英:Chen Cheng-po )

(1895年2月2日―1947年3月25日)

台湾の画家。嘉義に生まれる。1913年に嘉義公学校を卒業後、台湾総督府国語学校師範部乙科に入学する。水彩画家の石川欽一郎(1871―1945)の指導を受けたことで西洋美術と出会う。1919年、国語学校師範部乙科を卒業後、嘉義で教職に就くも画家の道をこころざし、1924年3月に東京美術学校の図画師範科に入学した。並行して岡田三郎助が設立した本郷絵画研究所でもデッサンを学んだ。

1926年に油絵作品「嘉義の町はづれ(嘉義街外<一>)」が台湾出身の画家として初めて帝国美術展覧会に入選した。翌27年以降も研究科に在籍し学業を継続した。卒業後は上海に渡り、新華芸術専科学校および昌明芸術専門学校で教職につき、芸苑絵画研究所にも所属した。1931年には中華民国の第1回全国美術展覧会において「現代中国を代表する12人の画家」に選ばれ、中華民国代表として「清流」をシカゴ万博に出品した。同作品は、西湖十景の一つで雪見の名所とされる「断橋残雪」を描いたもので、現在は文化部により「重要古物」に指定されている。

上海事変の勃発により帰台を余儀なくされ、1933年に帰郷した。1934年、顔水龍、廖継春らと共に台陽美術協会を設立し、以降毎年春に台陽美術協会展を行い台湾美術界の振興につとめた。なお同会は、現在も活動を続ける台湾最大の民間美術団体である。

1946年には第一回嘉義市参議会議員に当選、第1回台湾省美術展覧会審査員もつとめた。翌47年に二二八事件が発生すると、二二八事件処理委員会の代表として国民党軍と交渉中に反逆罪に問われ、銃殺された。陳澄波の作品が情報機関の捜査を逃れ、現在に伝えられたのは、配偶者である張捷がそれらを秘匿し守りぬいた功績による。

もっと知りたい方のために

・井竿富雄、吉永敦征、安渓遊地編著『上山満之進と陳澄波―山口県と台湾の友好をめざして』山口県立大学、2017年
・柯宗明、栖来ひかり訳『陳澄波を探して―消された台湾画家の謎』岩波書店、2024年
・邱函妮『描かれた「故郷」―日本統治期における台湾美術の研究』東京大学出版会、2023年
・財団法人陳澄波文化基金会https://chengpo.org