コンクリート造りの八角管制塔跡(山﨑直也撮影)

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南機場八角塔台

宜蘭南飛行場八角管制塔

第二次世界大戦の遺構が散在する田園風景の中で戦争と平和を考える

1936年以降、宜蘭平原には、日本によって北・南・西の三つの飛行場が造られました。北飛行場は軍民共用、南飛行場と西飛行場はそれぞれ軍用の第一、第二飛行場です。のどかな田園風景の中に突然現れるコンクリート造りの八角形の建物は、旧宜蘭南飛行場の管制塔跡で、一帯には軍用機や物資を敵の攻撃から守る掩体壕、燃料貯蔵庫、兵器庫などが散在しています。今日の平和そのものといった風景からは想像もつきませんが、第二次世界大戦末期には、沖縄戦の特別攻撃隊の若者がここからも飛び立っていったのです。整備された観光スポットではありませんが、田園風景の中に一つまた一つと戦争遺構が現れるこの場所は、歴史を知って歩くことで、戦争と平和について、日本と台湾の歩みについて、静かに思いを巡らすことができます。

学びのポイント

第二次世界大戦と「台湾」

今日、台湾という言葉は、文脈によって二つの意味を表します。広義の台湾は、台湾本島(附属島嶼を含む)・澎湖諸島・金門島、馬祖島という政治実体(台澎金馬)、即ち、1949年から現在に続く中華民国政府の実効支配地域のことです。報道などで台湾政府、台湾総統選挙と言う場合の台湾は、この広がりを含意します。一方、「台湾400年の歴史」と言う場合、それは狭義の台湾、即ち、台湾本島を指します。台澎金馬の歴史経験は一様ではなく、「17世紀に始まる台湾の歴史」という説明の場合の台湾は台湾本島にのみ当てはまるものです。台湾本島と澎湖諸島が約半世紀にわたり日本の植民統治を経験したのに対し、金門島、馬祖島は日本に統治されたことはありません(但し、金門島は戦時中、日本に軍事占領されています)。台澎金馬の広がりで「台湾は第二次世界大戦を日本と戦った」と言った場合、それは場所によりまったく異なる意味を持ちます。台湾本島と澎湖諸島が日本の一部としてアメリカや中華民国と戦ったのに対し、金門島と馬祖島は中華民国の一部として抗日戦争を戦いました。台湾として一括される広がりの中に、180度異なる戦争経験が共存しているということは重要な基本認識です。

のどかな田園風景に刻まれた戦争の記憶

宜蘭市進士路の陳氏鑑湖堂は、福建の鑑湖にルーツを持つ陳氏が故郷を想ってその名をつけた家廟で、周囲に美しい池と落葉松(カラマツ)林のある古跡です。静かな境内には鑑湖堂周辺文化遺産という零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)が描かれた大きな地図があり、この一帯が宜蘭南飛行場の跡地であることを気づかせてくれます。地図には、八角管制塔をはじめ、田んぼの中の燃料貯蔵庫や一号機堡、二号機堡と呼ばれる掩体壕が写真つきで紹介され、さらには兵器庫や別の燃料貯蔵庫の位置も示されていますが、実際にこの辺りを歩いてみると、これらの戦争遺構は周囲の景色に完全に溶け込んで、地図があっても探すのに苦労するものもあります。目の前に広がるのは平和そのものといった景色ですが、ここは数々の戦争の記憶が刻まれたかつての特攻隊の基地であり、その歴史を知って歩けば、のどかな田園風景がまた違ったものに見えてくるでしょう。若者たちはどんな思いでここから飛び立っていったのか、そもそもなぜ何もない台湾の田園に日本軍の飛行場が造られるに至ったのか、戦争と平和について深く考えるきっかけがここにはあります。

宜蘭平原ののどかな田園風景(山﨑直也撮影)

さらに学びを深めよう
参考資料
知覧特攻平和会館の「航空特攻作戦の概要」では、宜蘭を含め当時台湾にあった出撃地の位置と飛び立った特攻隊員の人数を知ることができます。栖来ひかり「たいわんほそ道~青天の下で歩く民主の聖地、宜蘭の経験を想う――県庁舎~金古路~員山機堡」(『nippon.com』2021年12月19日)は、八角管制塔を含む宜蘭南飛行場一帯の戦争遺構と同じ宜蘭市内にある員山機堡を多くの写真と現地の人々の証言を交えて紹介しています。宜蘭から出撃した特攻隊員との思い出を語った女性の回想として、中田芳子『十四歳の夏―特攻隊員の最期の日々を見つめた私』(フィールドワイ、2012年)という本があります。きむらけん『台湾出撃沖縄特攻: 陸軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房、2022年)は、桃園の八塊飛行場から飛び立った特攻隊に関するものです。

(山﨑直也)

ウェブサイト
なし
所在地
宜蘭県宜蘭市宜科露312号