松園別館 松園別館(旧花蓮港陸軍兵事部)

琉球松に囲まれて太平洋を見下ろす洋館の数奇な運命

下野寿子撮影

松園別館の瓦屋根を配した洋風建築は、太平洋戦争勃発の翌年、1942年4月に台湾籍日本兵の募集を始めた花蓮港兵事部(兵士募集と兵役管理を行う軍の組織)の建物でした。出撃前の特攻隊員は天皇陛下の御真影が掲げられた小木屋でお酒を頂いたといわれています。戦後は、中華民国政府の施設になり、米国軍事援助顧問団のレクリエーション施設としても使われました。軍の施設としての役割を終えた後、2002年に歴史建築に登録され、観光と芸術文化活動の場所として生まれ変わりました。松園別館の「松」は、日本人がこの地を整備した時、塩害に強く防風林になるとして植えられた琉球松に由来します。1.38haの敷地には、樹齢100年以上の琉球松31本が悠々と枝を伸ばしています。

学びのポイント

松園別館の主は誰?

戦後日本が去ると、松園別館は中華民国政府に所有され、間もなく米軍軍事援助顧問団がダンスパーティーなどに使用するようになりました。1979年、米華(台)断交で米国軍事援助顧問団が去った後、松園別館は長く放置されました。日本の植民地支配や国民党独裁政権の下で軍部との関わりが深かった洋館は、民主化した台湾では歴史建築として修復され、人々が集う憩いの場になりました。

「鬼(幽霊)」が出るって本当?

松園別館には鬼伝説がありました。実はこの辺りは、1878年に先住民族のクバラン族が清軍との戦いで多くの犠牲者を出した加礼宛事件の舞台です。そうした歴史がある場所に、日本軍の施設が建設されたのです。終戦時には、松園別館で切腹した日本軍人がいたともいわれていますが、これは口承以外に確認する術がありません。けれども、先住民族にまつわる血なまぐさい歴史の上に、出撃前の特攻隊員が出入りし、その後も軍の施設であり続けた松園別館は、「鬼が出る」という噂が立つほど敬遠される場所だったのでしょう。鬼伝説の起源をたどって地域の歴史を紐解けば、先住民との民族対立にまでさかのぼる歴史に行き着きます。

特攻隊員は2つの名前を持っていた?

台湾では1936年末に皇民化政策が始まり、1942年に陸軍特別志願兵制度を、1945年には徴兵制を導入しました。敷地内の防空壕に展示された特攻隊員の説明書きを見てください。台湾人日本兵の写真には、本来の民族の名前と日本名の両方が書かれています。戦後、台湾は中華民国へ引き渡され、台湾人が日本政府から補償を受けることはありませんでした。戦争を生き延びた台湾人は敗戦の時まで日本人として生き、終戦後は中華民国の国民として生きたのです。

防空壕(下野寿子撮影)

さらに学びを深めよう

  1. 【事前学習】【事後学習】1979年になぜ米華(台)断交(台湾とアメリカが国交を断絶すること)になったのか、原因を調べてみましょう。
  2. 【事前学習】【事後学習】台湾では、クバラン族を含め16の先住民族が政府に認定されています。これらの先住民族について、民族名とその特徴や居住地について調べてみましょう。
  3. 【現地体験学習】松園別館の防空壕を見学して、戦時下の台湾や台湾人日本兵について調べてみましょう。

参考資料

日本統治時代の台湾の様子については、沼崎一郎『台湾社会の形成と変容~二元・二層構造から多元・多層構造へ~』(東北大学出版会、2014年)の「第3章 日本植民統治の時代―二元・二層構造の確立と徹底」があります。皇民化政策については、周婉窈『増補版 図説 台湾の歴史』(平凡社、2016年)の「第12章 戦時下の台湾」が多くの写真と具体例で解説しています。少し専門的になりますが、戦後台湾の政治については、若林正丈『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)がおすすめです。酒井充子監督のドキュメンタリー『台湾人生』には、台湾籍日本兵であった台湾人が出演しており、自らの体験談や心情を語っています。

(下野寿子)

ウェブサイト
公式http://www.pinegarden.com.tw/ 花蓮観光資訊網(花蓮県政府)http://tour-hualien.hl.gov.tw/POI/3
所在地
花蓮市松園街65号