赤崁樓 赤崁楼

オランダ東インド会社の城塞に由来する、台南の代表的な古蹟

黒羽夏彦撮影

赤崁楼は1653年にオランダ東インド会社が築いたプロヴィンティア城(普羅民遮城)に由来します。1661年に明の遺臣鄭成功が占領して鄭氏政権の拠点が置かれました。1683年に台湾が清朝に併合された後、反乱にあって荒れ果ててしまいましたが、19世紀には中国式建築が建てられました。日本統治時代に陸軍衛戍病院や台湾総督府国語学校台南分校が設置されたこともあります。現在では国定古蹟に指定され、台南の代表的な観光スポットとなっています。赤崁楼の来歴からは、先住民族(シラヤ人)、オランダ時代、鄭氏政権時代、清代、日本統治時代と様々な時代の痕跡を見出せるでしょう。

学びのポイント

赤崁楼という名前の由来は何ですか?

「赤崁」(日本語で「せっかん」、中国語で「チーカン」と発音します)という漢字を見ると、赤いレンガの建物なのかな?と思うかもしれませんが、この漢字そのものには特に意味はありません。台南にはかつてシラヤ人という先住民族が住んでいました(後に漢人と同化して「平埔族」と呼ばれます)。このあたりはもともとシラヤ語で「サッカム」(Saccam)と呼ばれており、その発音を漢字で「赤崁」と表記したのです。

赤崁楼は誰が建てたのですか?

シラヤ語の「サッカム」とは魚や漁港を意味します。実はむかし、ここと安平の間には台江内海という海が広がっており、赤崁楼はその沿岸に位置していたのです。1624年にオランダ東インド会社が安平の砂洲にゼーランディア城という堅固な城を築いたのですが、生活上は不便でした。そこで、対岸の赤崁でシラヤ人から土地を購入して街をつくります。これが台南の街の始まりです。オランダ東インド会社は労働力として漢人も連れてきたのですが、その後、漢人の反乱に直面したので、1653年にプロヴィンティア城を新たに築きました。漢人はこれを赤崁楼と呼ぶようになります。

オランダ人が建てた城なのに、見た目は中国風なのですね?

17世紀、明清交替の動乱で、鄭成功が清朝と戦うための根拠地として台湾に目を付けました。1661年、鄭成功はプロヴィンティア城(赤崁楼)を占領し、ここに承天府という政府機構を設立します。1683年に清朝が鄭氏政権を滅ぼして台湾を併合するのですが、赤崁楼は徐々に荒れ果ててしまいました。19世紀になって、文昌閣、海神廟などの中国式建築がオランダ時代の土台の上に築かれ、現在の見た目は中国風になりました。その後、何度か改修が繰り返され、現在の風景となりました。太平洋戦争中に日本人の羽鳥又男・台南市長が赤崁楼の修復工事に尽力したことも知られています。

黒羽夏彦撮影

 

さらに学びを深めよう

  1. 【事前学習】【事後学習】オランダ人はなぜ台湾へ来たのか、調べましょう。
  2. 【事前学習】【事後学習】先住民族(シラヤ人)、オランダ人、漢人の関係を整理しましょう。
  3. 【現地体験学習】赤崁楼でオランダ人が造った部分と漢人が造った部分をそれぞれ現地で確認してみましょう。

参考資料

オランダ時代の台湾史については伊藤潔『台湾──四百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)の「序章 大航海時代の波しぶき」「第一章 オランダ支配下の台湾」から読むといいでしょう。専門的ですが、オランダ時代から鄭氏政権時代にかけては林田芳雄『蘭領台湾史──オランダ治下38年の実情』(汲古書院、2011年)、『鄭氏台湾史──鄭成功三代の興亡実紀』(汲古書院、2003年)が詳しいです。 鄭氏と台南との関係については、SNET台湾のYouTube番組「台湾修学旅行アカデミー 第7回 台湾Area Studies~台南篇~」(講師:大東和重)も合わせてご視聴ください。

(黒羽夏彦)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003119&id=471 台南旅遊網(台南市政府観光旅遊局)https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4788
所在地
台南市中西区民族路二段212号