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逍遙園

逍遥園

建物の変遷を通じて日本と台湾との関わりを考える

逍遥園は1940年に浄土真宗本願寺派(西本願寺)第二十二世法主・大谷光瑞(1876~1948)の別荘として建てられました。1945年に日本の植民統治が終わると、中華民国政府に接収されます。当初は軍病院関係者の宿舎にあてられ、周囲にも急ごしらえの宿舎が建てられたので、この辺りはいわゆる「眷村」(外省人を中心に公務員、軍関係者などが暮らす区域)となりました。その後、老朽化したため、解体して再開発する計画が持ち上がりましたが、高雄市民の間から古蹟として保存しようという運動がわき起こります。その結果、2010年に高雄市歴史建築に指定され、2017年に修復工事が始まり、2020年11月1日にリニューアルオープンしました。

学びのポイント

大谷光瑞ってどんな人ですか?

浄土真宗本願寺派(浄土真宗は仏教の宗派ですが、浄土真宗もまた複数の宗派に分かれており、本願寺派は京都の西本願寺を本山としています)は親鸞の子孫である大谷家が代々法主を務めてきました。光瑞は1903年に第二十二世法主となりました。海外への関心が強く、教団の海外布教を積極的に進めたほか、仏教のルーツをたどるため中央アジアへ調査隊(大谷探検隊)を派遣したことでも有名です。

この建物はどんな役割を果たしたのですか?

大谷光瑞は日本の中国や東南アジア方面への進出にも強い関心を持っており(台湾だけでなく、中国やインドネシアにも別荘を持っていました)、関連する政府の役職にも就きました。逍遥園には建物のほかに農園があり、ここで熱帯性作物の試験栽培が行われました。また、南方への派遣を前提として学生が集められ、マレー語の授業も行われたそうです。逍遥園は光瑞の別荘ですが、単に本願寺派の布教拠点というだけでなく、戦争中の日本のいわゆる「南進」(東南アジア方面へ進出すること)政策とも密接な関わりがありました。

逍遥園はなぜ保存されたのですか?

日本統治時代の建築をめぐっては台湾での捉え方は複雑です。戦後、逍遥園に住んだ人たちは中国から逃れて来た人たちでした。抗日戦争の記憶があったはずですから、日本建築に住むことに心理的葛藤があったかもしれません。他方で、建てられてからすでに長い時間が経過しましたから、逍遥園という建物自体が高雄の歴史の生き証人のようなものです。現在では逍遥園の建築的な価値が認められ、古蹟として保存されています。

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さらに学びを深めよう
  • 【現地体験学習】逍遥園の中では昔の構造が復元され、その特徴や用途が解説されています。実際に見てみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】大谷光瑞が高雄に別荘を建てたのは日本の「南進」政策と関係があります。台湾と東南アジアはどんな関係がありますか? 調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】台湾では日本統治時代の建築がたくさん保存されています。それはなぜなのか、考えてみましょう。
参考資料
大谷光瑞については様々な本が刊行されており、評伝としては杉森久英『大谷光瑞』(中公文庫、1977年)、津本陽『大谷光瑞の生涯』(角川文庫、1999年)などが読みやすいでしょう。逍遥園については、柴田幹夫『大谷光瑞の研究──アジア広域における諸活動』(勉誠出版、2014年)所収の「第一部第五章 大谷光瑞と台湾──『逍遙園』を中心にして」、柴田幹夫編『台湾の日本仏教──布教・交流・近代化【アジア遊学222】』(勉誠出版、2018年)所収の黄朝煌「台湾高雄『逍遥園』戦後の運命」があります。

(黒羽夏彦)

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