防備衛所(渡邉義孝撮影)

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漁翁島燈塔(西嶼塔燈)

西嶼灯台(漁翁島灯台)

灯台と廃墟が語る島のの歴史-澎湖西嶼灯台(漁翁島灯台)と防備衛所

澎湖諸島は、日本と台湾の歴史を語る上でも特別な重みを持つ場所です。日清戦争終結後の1895年に、下関条約によって日本は台湾支配を始めますが、大日本帝国の軍隊が最初に上陸したのは、ここ澎湖の島でした。実は下関で講和会議が行われている最中のこと、フランスの動きを牽制するため、合意なき軍事占領を強行。武力で中心都市の馬公を占領しました。その後、下関条約で「正式に」台湾本島の領有権を手にしたのです。以降、日本は澎湖諸島の防備を固め、軍事的な要衝および海洋交通のために、いくつかの要塞や灯台を建設しました。石造りの「防備衛所」は、現在は廃墟 になっています。近くには清代末期に英国人技術者により建設された灯台も残っています。現地を見学することで歴史をより深く学ぶきっかけとなるでしょう。

学びのポイント

防備衛所では何をしていた?

玄武岩などの石材を積んで造られた防備衛所は、かつて澎湖を占領した日本軍が、海上監視と潜水艦の索敵のために設置した軍事施設でした。衛所は、20人ほどの下士官と兵が生活していた場所で、寝室や食堂、浴室などがありました。建設年代は1941年頃だと見られています。この年には、日本の海軍によるハワイの真珠湾攻撃があり、中国大陸への侵攻を続けていた日本が、ついに米英と全面戦争に突入した年でした。真珠湾と同時に日本はシンガポールも攻撃し、東南アジアへも多数の軍隊を送ります。澎湖諸島は、そうした日本の拡張路線の重要な拠点であり、ここを破られれば本土も危うくなる、死活的な防衛ラインでもあったのです。

防備衛所(渡邉義孝撮影)

防備衛所(渡邉義孝撮影)

西嶼灯台(漁翁島灯台)はいつ建てられた?

清代中期の1778年、中国大陸との往来を支えるために石造灯台が設置されます。もちろん電気式ではなく油を燃やすランプ式でした。その100年後、西洋式の鉄製の灯台を建設。円筒が花崗岩の基礎の上に載っています。設計者はイギリス人技師のデビッド・M・ヘンダーソンで、彼の名前と着工年の「1894」の文字が、灯台の入口上部に刻まれています。これこそが、台湾最古の西嶼灯台(別名:漁翁島灯台)で、国定古蹟に指定されています。
日本統治時代には当直室が造られました。シンプルで堅牢、しかし窓や屋根に洋館らしいデザインを加えたこのかわいい小屋は、現在は展覧室として公開されています。

西嶼灯台(渡邉義孝撮影)

西嶼灯台(渡邉義孝撮影)

民家の壁にあるゴツゴツした石は?

澎湖の集落では、風紋のような襞が刻まれた石が民家の壁に積み上げられています。これは実は珊瑚(サンゴ)です。 離島では、木材資源やコンクリートなどの建設用資材が限られていました。澎湖諸島の地盤は玄武岩などの火山岩と、海に出れば珊瑚が豊富に存在します。玄武岩だけでなく、珍しい珊瑚の建材、これこそ澎湖諸島の「地産地消」だったのです。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】古蹟に指定されている二崁村の陳宅は、玄武岩をふんだんに使った三合院形式の邸宅ですが、純粋な中華風ではなく洋風のデザインが混じっています。1910年に建てられたこの家が、なぜこんな折衷様式になったのか、考えてみましょう。
  • 【現地体験学習】防備衛所は、飾り気のない軍事施設のように見えますが、窓枠や屋根の軒などに、複雑なカーブを見せるオーナメント装飾が確認できます。建物に「美」を付け加えようとした当時のデザイナー(設計者)の思いを考えてみましょう。
参考資料
澎湖の廟など澎湖を歴史的な視点からたどるには杉山靖憲編著 . 美濃庄要覧『澎湖を古今に渉りて』(ゆまに書房、2015年)がおすすめです。少し古いですが、歴史家である林衡道が書いた「澎湖島の旅」『海外事情』第6号、1958年9月も読んでみましょう。

(渡邉義孝)

ウェブサイト
交通部観光局 西嶼灯台(漁翁島灯台) https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003125&id=660
所在地
澎湖県西嶼郷外垵村35鄰195号