八田與一(はった よいち)
(1886年2月21日-1942年5月8日)
台湾南部の用水路、嘉南大圳の建設(1920-30)に携わった土木技師。與は与の旧字体で、与一とも表記される。石川県金沢市出身。旧制第四高等学校から東京帝国大学に進学。卒業後の1910年に台湾に渡り、台湾総督府土木部に勤める。嘉南大圳建設中は嘉南大圳組合技師となるが、完成後は台湾総督府に戻り勅任技師となった。1930年に竣工した嘉南大圳は約15万ヘクタールを灌漑するが、建設直後は受益者負担となっていた建設費(水租)の徴収が過重であり、水租不納運動が起こった。
1931年、八田は嘉南大圳の水源地烏山頭ダム湖畔に殉工碑を建て、碑には日本人と台湾人、男女の隔てなく、工事の犠牲者の名前を刻んだ。同年、工事関係者有志により八田の銅像がつくられた(戦時期に金属徴収のため撤去)。
1942年、陸軍の命でフィリピンの水利開発に向かったが、5月8日乗船していた大洋丸が長崎沖でアメリカの攻撃を受け沈没し、亡くなった。日烏山頭に疎開していた八田與一の妻、外代樹は、1945年9月1日にダム放水口に身を投げ自殺した。翌年、八田夫妻の日本式の墓が烏山頭ダムの湖畔に建てられた。1981年、その墓の前に八田の銅像が設置された。この銅像は1931年に制作され、戦時期に金属徴収されたものの棄損を免れ、戦後関係者が引き取って屋内に展示していたものである。八田の存在は世に忘れ去られていたが、銅像が湖畔に再設置されると、徐々に知られるようになった。
八田の命日である5月8日には、例年追悼式典が開催され、台南と金沢の様々な交流の起点ともなっている。
もっと知りたい方のために
・清水美里 『帝国日本の「開発」と植民地台湾 台湾の嘉南大圳と日月潭発電所』有志舎、2015年