921大地震(台湾大地震):(きゅうにいちおおじしん、たいわんおおじしん)

前野清太朗

1999年9月21日に台湾中部を震源として発生した地震。発生日の日付から、921大地震という。震源地である南投県集集(しゅうしゅう)鎮の名から、集集大地震とも呼ばれる。台湾はユーラシアプレートとフィリピン海プレートが衝突する地点にある。入り組んだプレートのぶつかり合いにより、台湾の西側には幾筋かの活断層が並行して走り、歴史的に大きな地震を繰り返し発生させてきた。921大地震は、これら活断層群のうち台中市から南投県にかけた内陸を南北に走る車籠埔(しゃろうほ)断層のズレが主要因である。午前1時47分に発生した地震の規模はマグニチュード(Mw)7.7で、死者2415人、重傷者1万1305人、全壊家屋5万1711棟を数える戦後台湾最大の災害となった。

先住民地区を含む中山間地域は、家屋や交通・通信インフラを中心に大きな打撃を受けた。大都市である台中市内はもとより、遠く台北市内にも揺れの影響は及び、商業ビルや集合住宅が倒壊して死傷者を発生させた。被災地には海外からのレスキュー隊も入り、最終的に20か国が救援活動を支援した。とくに被災当日にいち早く台湾に到着した日本隊(110名)は各国中最大規模のレスキュー隊であった。その後も日本からは仮設住宅が提供されたほか、国際募金の6割超を占める額の義援金が送られた。日台間での相互の義援金のやり取りは、2009年の八八水災、2011年の東日本大震災と続いている。

台湾内でも企業や宗教団体による大々的な支援活動や資金提供が行われ、政府による公的援助の不足を補った。一方、異なるバックグラウンドをもつ非政府系支援団体が被災地に多数入り、異なるルートで援助物資が届けられたことが現地に混乱を招くことにもなった。そこで援助の分配・調整のために公設基金や民間の外部仲介団体が設立され、被災地側にも地域別の受け皿組織(重建委員会)が設置された。受け皿組織をベースに地区の復興計画を策定させ、補助金を投入して復興まちづくりを行わせる方式は、その後の災害復興や被災地以外の地域づくりモデルとして応用されている。

もっと知りたい方のために

もっと知りたい方のために
・李登輝『台湾大地震救災日記』PHP研究所、2000年
・和田芳隆『地震社会学の冒険――台湾・トルコ・神戸震災地の復興研究』アストラ、2004年

関連リンク
・「你還記得921大地震嗎?」時空旅行社-国家文化記憶庫2.0
https://curation.culture.tw/curation/public?id=1860
・921地震教育園区
https://www.nmns.edu.tw/park_921/