・福岡アジア美術館 『官展にみる近代美術: 東京・ソウル・台北・長春』2014年
・吉田千鶴子『近代東アジア美術留学生の研究 : 東京美術学校留学生史料』ゆまに書房、2009年
・洪韶圻「陳敬輝(1911-1968)の絵画における「台湾意識」:台展作品をめぐって」(『京都市立芸術大学美術学部研究紀要』67号、p.113-126)2023年
台湾美術展覧会(台展)、台湾総督府美術展覧会(府展)
日本統治期の台湾における官設美術展覧会(官展)。専門の美術教育機関が設けられなかった台湾では、台展・府展はともに作家が研鑽を積む貴重な場であり、新人作家の登竜門でもあった。官展に入選することは、職業作家としての地位が保証され、生計を立てる上でも非常に重要であった。また、観客にとっては、伝統美術とは異なる新時代の芸術に触れる場であり、官展を通じて西洋画の受容が促された。
台湾美術展覧会(台展)は台湾教育会が主催し、東洋画と西洋画の二部制で、1927年から台北で開かれ、1943年まで通算16回開催された。1937年は日中戦争のために中止されたが、翌38年には台湾総督府が主催を引き継いだ。台湾総督府主催になってからは、台湾総督府美術展覧会(府展)と呼ぶ。審査員は文部省美術展覧会(文展)と帝国美術院展覧会(帝展)の重鎮と台湾在住の日本人画家が中心だったが、第6回(1932年)から第8回(1934年)のみ台湾人画家が加わった。日本画家の陳進(1907-1998)と洋画家の廖継春(1902-1976)は3回とも、洋画家の顔水龍(1903-1997)は第8回の審査員を務めたが、このうち顔水龍だけは日本の官展入選の経験がなかった。官展は審査を通じて作品を序列化し、選別された作品に文化的意義という正当性を付与するシステムであった。その点において、サロン・ドートンヌに入選した経歴があったものの、官展への入選経験がない顔水龍に審査員としての資格があるかが議論を呼び、1935年から台湾籍の審査員の起用が取り止められた。