「黒いダイヤ」とも呼ばれる石炭は、近代社会の発達を支えたエネルギーの主役でした。そのため、日本でも台湾でも、石炭を採掘する石炭鉱業は、産業を支える重要な役割を担っていました。
台湾でも古くから石炭が産出されたようですが、本格的な採掘が進んだのは19世紀後半です。台湾の炭鉱は、そのほとんどが北部の基隆周辺に集中しています。基隆は台湾北部の港として発展しましたが、その理由のひとつは、基隆周辺で汽船の燃料となる石炭が豊富に産出されたことです。基隆周辺地域における石炭鉱業の振興は、この地域を拠点とする台湾の富豪・基隆顔家が中心となり、日本統治時代に顔家は日本の三井財閥と協力することで炭鉱開発を本格的に進めていきました。
井村陽介提供
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現在、基隆周辺のいくつかの場所で、かつて栄えた炭鉱の跡を見ることができます。そのひとつが、台湾煤鉱博物館(新平溪煤礦博物園區とも呼ばれます)です。この博物館は、多くの観光客が訪れるローカル線、平渓線の十份駅に近く、炭鉱時代はここから鉄道を利用して産出した石炭を輸送していました。現在でも、駅と博物館の間には、石炭を輸送していた施設の跡が残されています。この炭鉱は比較的新しく、採掘が始められたのは1965年のことでした。当初、この炭鉱は基隆顔家が経営する台陽鉱業が所有していました。
しかし1950年代以降、中東で大規模な油田が発見されたことをきっかけに、世界中で「エネルギー革命」が進むことになります。これにより、石油がエネルギーの主役になり、石炭の需要は徐々に縮小していきます。台湾でも1970年代には石炭生産は本格的に縮小、台陽鉱業も1974年にこの炭鉱を手放しました。あとを引き継いだ会社も1997年には石炭採掘を終了し、2002年に博物館としてオープンしました。比較的最近まで炭鉱として操業していたことから、当時の炭鉱の様子がよくわかります。
井村陽介提供
台湾煤鉱博物館では、当時の炭鉱と、炭鉱で働いていた工員の生活に関する展示を見ることができます。残念ながらかつて採掘が行われていた坑道は一般には開放されていないため、ほとんど見ることはできませんが、その抗口や再現された模擬坑道を見ることができます。しかし、この博物館の最大の特徴は、当時石炭を輸送していた列車が保存されており、なおかつ今も乗車することができることです。十份駅と博物館はやや離れていますが、その間にレールが敷設され、黄色い電気機関車(ヘッドライトがひとつしかないので、「一つ目小僧」とも呼ばれています)がトロッコを引いて走ってきます。廃線跡のような雰囲気ですが、今も博物館を訪れた人を運んでいる、現役の路線です。現在の台湾で、炭鉱用に利用されていた鉄道を体験できるのはここだけで、とても貴重な存在です。
松葉隼撮影
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