冨田哲撮影

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瑞芳

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瑞芳の鉱業遺跡群

清朝末期からの鉱山地帯―近年は産業遺産を中心とした観光地として注目

宜蘭線の瑞芳駅周辺、別項で紹介する九份、金瓜石は、現在はいずれも新北市瑞芳区の一部となっています。かつてこのあたりには金、銅、石炭などの鉱山が多くあり、清朝末期から採掘がおこなわれていました。日本統治期を経て第二次世界大戦後も採掘は続けられましたが、資源の枯渇、事故の頻発、産業構造の転換などにより、瑞芳では1990年までにすべての鉱山が閉鎖されました。最盛期には鉱山労働者や家族、かれらを相手とする商業の発達でおおいににぎわったこの地域も衰退を余儀なくされましたが、今日では観光地として、また産業遺跡が数多く残る地域として、あらためて脚光を浴びています。

学びのポイント

鉱山を開発したのはだれ?

清朝末期から採炭や砂金の採取がおこなわれていましたが、日本統治期に多数の金鉱や炭鉱の経営を握ったのが顔家という家族です。地名を頭につけて基隆顔家と呼ばれます。事業拡大の立役者となった顔雲年は歌手の一青窈の曽祖父にあたります。顔雲年の死後も、顔家は運輸業、林業、水産業、造船業、金融業などさまざまな分野に進出し、一大企業グループを築きあげました。日本統治期には、北部の板橋林家、中部の霧峰林家、鹿港辜家、南部の高雄陳家とともに台湾五大家族に数えられています。

炭鉱町はどんな様子だった?

瑞芳駅から宜蘭方面へ一駅、猴硐駅周辺の猴硐煤鉱博物園区に行ってみるといいでしょう。かつてここに、台湾で最大量の石炭を産出した瑞三炭鉱がありました。もともとは日本統治期に、顔雲年と鳥取出身の鉱山実業家、木村久太郎が共同で開発した炭鉱です。1990年に閉山しましたが、建物や関連施設が保存、再利用されています。出坑してきた鉱員の浴場を改装した鉱工紀念館や、元鉱員が協力して瑞三本鉱口そばで運営している煤郷鉱工文史館では、過酷な労働環境や鉱員たちの日常を知ることができます。園区内には他にも、選炭場跡、鉱員宿舎跡、日本統治期の猴硐神社の鳥居などが点在しています。 

瑞三本鉱口

「天空の城」とは?

瑞芳市街地から山道を走り、九份、金瓜石をこえて海辺の方向に降りて行ったところに水湳洞十三層遺址があります。金瓜石で採掘された銅の選鉱場跡で1933年に建てられ、1987年まで操業していました。下から上まで13層(18層とも)になっていると言われる廃墟で、「天空の城」と称される幻想的な姿をながめることができますが、敷地内には入れません。鉱物と化学反応をおこした地下水が流れる黄金瀑布や、それが海に流れ込んで海水が変色している陰陽海も近くです。 

黄金瀑布の下流

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】基隆顔家がこの一帯でどのように事業を拡大していったのか調べましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】日本で炭鉱が多かったのはどの地域でしょうか。また石炭産業の盛衰についても調べてみましょう。
  • 【事前学習】【現地体験学習】【事後学習】水湳洞十三層遺址そのものは有害物質によって汚染されています。黄土色に染まった黄金瀑布やそこから流れる川、陰陽海も、長年の鉱山採掘がもたらした環境汚染と言えるでしょう。これらが観光資源として活用されていることについて考えてみましょう。
参考資料
赤松美和子・若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店、2016年)の第58章「経済」(北波道子)に、「台湾五大家族」への言及があります。作家の一青妙(一青窈の姉)は、台湾で過ごした幼少期や父の顔恵民の思い出、顔家のことなどを『私の箱子』(講談社、2012年)につづっていて、これらをもとに映画『ママ、ごはんまだ? 』(監督:白羽弥仁、2017年)が作られました。映画『多桑 父さん』(監督:呉念真、1994年)の主人公は、猴硐の炭鉱で働き、塵肺に苦しみながら世を去りますが、呉の父がモデルです。ジャーナリストの松田良孝がみずからのサイト「台湾沖縄透かし彫り」に、猴硐出身の呉について書いています(「ネコ村」と台湾映画(上)(中)(下))。   


(冨田哲)

ウェブサイト
新北市観光旅遊網(新北市政府観光旅遊局) https://tour.ntpc.gov.tw/ja-jp/Attraction/Search?wnd_id=115 (地域の選択で「瑞芳区」にチェックを入れて検索)
所在地
新北市瑞芳区逢甲路82号 瑞芳区公所