星純子撮影
旗山碾米廠
旗山精米所
内地移出米の大規模倉庫-台湾人地主の繁栄の終焉-
旗山精米所は、高雄市旗山区にある旗山信用購買販売組合(後の農会。日本の農協に相当)が1942年に建てた木造の精米・貯蔵施設です。現存し活用されているものとしては彰化県福興郷(1935年)、台中市石岡区(1941年ごろ)にも大規模なコメ倉庫があり、こうした施設の建設が同時代の全島的政策課題であったことが分かります。旗山精米所は、戦後も旗山鎮農会(2010年12月25日以降は旗山区農会)が精米所兼貯蔵庫として使用していました。その後、老朽化により使用を停止し、2014年にリノベーション(改修)されて展示館となりました。
学びのポイント
プランテーションなき植民地
日本統治期、台湾総督府は前近代的な地権の整理のため小規模自作農(地主)の土地を買収して大規模プランテーションを作れず、小規模農家中心の植民地経営を強いられました。そこで総督府は原料採集区制、つまり区域内の農家が指定された日本資本の大規模製糖工場以外にはサトウキビを売れない制度を敷き、農家から農産加工・販売に伴う利益を奪うとともに原料価格を抑えました。自作農は栽培する作物を選べたため、サトウキビの他に自給用のコメ(インディカ米)も栽培していましたが、それを見越して現金収入になるサトウキビは製糖工場に安く買い取られていました。
台湾人地主を潤す蓬莱米
第一次世界大戦期の日本内地のコメ不足を受け、1925年に磯永吉が台湾でも栽培できるジャポニカ米(蓬莱米)を開発し、二期作の利点と安価さをいかして日本内地への蓬莱米移出が始まりました。内地での蓬莱米の消費者は、高価な内地産のコメを買えない都市下層労働者です。台湾の自作農は高い価格だけでなく精米加工、流通、高利貸においても利益を得られたため、サトウキビのかわりに蓬莱米を栽培する自作農が急増し、灌漑施設の整備も手伝って豊かな収入がもたらされました。
コメ専売と大規模倉庫
1937年、日中戦争の勃発で日本内地は再びコメ供給過剰から不足に転じ、1939年に台湾総督府はコメの専売制を敷きました。また1930年代より総督府は富を得た台湾人自作農の力を削ぐため各地の小作農に信用組合をつくらせるとともに、補助金を出して自作農の倉庫より大規模な倉庫を建設させ、のちの専売制の拠点としました。大規模倉庫と専売により、内地米商への蓬莱米直接販売で利益を得ていた台湾人自作農は大きな打撃を受けました。旗山精米所はこの時期につくられた大規模倉庫の一つです。
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】蓬莱米は誰が食べてたでしょう?1920‐30年代の蓬莱米と生産高と日本への移入高をインターネットで検索して、考えてみましょう。
- 【事後学習】旗山精米所は台湾のどのような歴史の記憶を今に伝えていますか?
- 【事後学習】なぜ台湾では古い倉庫が保存活用されているのでしょうか?
参考資料
藤原辰史『稲の大東亜共栄圏 帝国日本の<緑の革命>』(吉川弘文館、2012年)を読むと、稲の品種改良の問題がいかに植民地(台湾、朝鮮)と結びついていたかがよく分かります。日本内地からコメの問題(コメ不足)を経済史的に描いた本としては大豆生田稔『お米と食の近代史』(吉川弘文館、2007年)、および専門的ですが、川野重任『台湾米穀経済論』有斐閣、1941年(台湾、成文出版社から復刻版あり)を読んでみましょう。