鄭成功の父親は17世紀に東アジアの海洋世界で活躍した貿易商(海賊とも言われます)の鄭芝龍です。鄭成功は明朝の皇帝から目をかけられ、皇帝と同じ姓(朱)を与えられたので「国姓爺」と呼ばれます。満洲族の清朝によって明朝が滅ぼされると、各地で明朝の復興を目指す抵抗運動が展開されました。鄭成功もそうした動きに加わり、父の部下を引き継いで勢力を広げました。反清運動の拠点を求める中で台湾に目を付け、1662年にオランダ東インド会社を追い出して台湾を占領しました。鄭成功はその年のうちに病死してしまいましたが、漢族系住民による台湾開発の基礎を築いたとみなされて敬意を受けています。
黒羽夏彦撮影
鄭成功の父・鄭芝龍は平戸(長崎県)に住んでいたことがあり、日本人女性・田川マツとの間に鄭成功が生まれました。延平郡王祠の後殿には母親も祀られています。鄭成功記念館や鄭成功が生まれた場所を示すと伝えられる「児誕石」がある平戸は、現在は台南市とも交流があります。明朝滅亡後、鄭成功を含む反清勢力が江戸幕府に援軍要請(「日本乞師」といいます)を繰り返していたので、彼の存在は当時から日本でも知られていました。後に近松門左衛門が鄭成功をモデルとして人形浄瑠璃『国性爺合戦』を書きます。
日本統治時代の日本にとって日本人と漢人との混血児であった鄭成功は、植民地統治のシンボルとして利用価値がありました。そこで日本の台湾総督府は延平郡王祠を「開山神社」に改めます。現在、「忠肝義膽」と書かれた牌楼(門)が建っていますが、これは日本統治時代の鳥居を改造したものです。開山神社は、日本が台湾を放棄した後、再び延平郡王祠に戻されました。戦後は鄭成功の位置づけが変わります。「反清復明」(清朝を倒して、明朝を復活させる)を目指した彼の姿は、「反攻大陸」(共産党政権下の大陸へ反撃する)というスローガンに重ね合わされました。このように、鄭成功の評価は時代によって大きく変化してきました。
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