黒羽夏彦撮影
黒羽夏彦撮影
延平郡王祠
延平郡王祠
時代によって評価が変転した鄭成功を祀る
延平郡王祠には鄭成功が祭神として祀られています。鄭成功は1662年にオランダ東インド会社を台湾から追い出しましたが、その年のうちに病死してしまいました。彼は台湾を漢人の勢力圏に収め、開発の基礎を築いたとされ、早くから神様として祀られました。しかし、鄭氏政権が清朝に滅ぼされた後は、鄭成功の名前を出すと都合が悪いので、「開山王」と呼び変えられます。「山」は台湾を指し、台湾の開拓者であることを意味します。1875年、清朝によって正式に延平郡王祠とされました。その後、建て替えが繰り返され、現在の建物は1963年に建てられたものです。敷地内には鄭成功文物館という歴史博物館もあるので、合わせて見学してみましょう。
学びのポイント
鄭成功とはどんな人物ですか?
鄭成功の父親は17世紀に東アジアの海洋世界で活躍した貿易商(海賊とも言われます)の鄭芝龍です。鄭成功は明朝の皇帝から目をかけられ、皇帝と同じ姓(朱)を与えられたので「国姓爺」と呼ばれます。満洲族の清朝によって明朝が滅ぼされると、各地で明朝の復興を目指す抵抗運動が展開されました。鄭成功もそうした動きに加わり、父の部下を引き継いで勢力を広げました。反清運動の拠点を求める中で台湾に目を付け、1662年にオランダ東インド会社を追い出して台湾を占領しました。鄭成功はその年のうちに病死してしまいましたが、漢族系住民による台湾開発の基礎を築いたとみなされて敬意を受けています。
鄭成功は日本と関係が深いと聞きましたが?
鄭成功の父・鄭芝龍は平戸(長崎県)に住んでいたことがあり、日本人女性・田川マツとの間に鄭成功が生まれました。延平郡王祠の後殿には母親も祀られています。鄭成功記念館や鄭成功が生まれた場所を示すと伝えられる「児誕石」がある平戸は、現在は台南市とも交流があります。明朝滅亡後、鄭成功を含む反清勢力が江戸幕府に援軍要請(「日本乞師」といいます)を繰り返していたので、彼の存在は当時から日本でも知られていました。後に近松門左衛門が鄭成功をモデルとして人形浄瑠璃『国性爺合戦』を書きます。
ここは昔、日本の神社だったのですね?
日本統治時代の日本にとって日本人と漢人との混血児であった鄭成功は、植民地統治のシンボルとして利用価値がありました。そこで日本の台湾総督府は延平郡王祠を「開山神社」に改めます。現在、「忠肝義膽」と書かれた牌楼(門)が建っていますが、これは日本統治時代の鳥居を改造したものです。開山神社は、日本が台湾を放棄した後、再び延平郡王祠に戻されました。戦後は鄭成功の位置づけが変わります。「反清復明」(清朝を倒して、明朝を復活させる)を目指した彼の姿は、「反攻大陸」(共産党政権下の大陸へ反撃する)というスローガンに重ね合わされました。このように、鄭成功の評価は時代によって大きく変化してきました。
黒羽夏彦撮影
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】鄭成功と日本との関係を調べましょう。
- 【事前学習】【事後学習】鄭成功の評価は、時代の変化に応じて異なります。どのように変わってきたのか、整理しましょう。
- 【現地体験学習】鄭成功の他にどのような人物が祀られているのか、確認してみましょう。
参考資料
鄭成功について知るには、奈良修一『鄭成功──南海を支配した一族』(山川出版社、2016年)、石原道博『国姓爺』(吉川弘文館、1959)から読むといいでしょう。彼が活躍した時代背景を知るには、伊藤潔『台湾──四百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)の「第二章 鄭氏政権下の台湾」、国立編訳館編(蔡易達・永山英樹訳)『台湾国民中学歴史教科書 台湾を知る』(雄山閣、2000年)の「第4章 鄭氏治台時期」が参考になります。専門的ですが、林田芳雄『鄭氏台湾史──鄭成功三代の興亡実紀』(汲古書院、2003年)もあります。陳舜臣『旋風に告げよ』(上下、中公文庫、1999年)をはじめ、鄭成功を取り上げた小説もたくさん出ています。台南と鄭成功については、SNET台湾のYouTube番組「台湾修学旅行アカデミー 第7回 台湾Area Studies~台南篇~」(講師:大東和重)も合わせてご視聴ください。
- ウェブサイト
- 交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003119&id=2118 台南旅遊網(台南市政府観光旅遊局)https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4799
- 所在地
- 台南市中西区開山路152号