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阿里山林業村

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阿里山林業村

日本統治期の林業と「植民者」のくらしを学ぼう!

嘉義県東部の阿里山地域はヒノキなど豊富な木材資源にめぐまれ、日本統治期には官営事業として林業開発がすすめられました。伐採された樹木は林業鉄道(阿里山森林鉄道)によって運搬され、鉄道の終着点である嘉義で建築等に利用する材木に加工されました。伐採・製材事業に携わった営林局の職員や技術者たちは官営の日本式宿舎に住まい「内地風」生活を続けていました。2000年代以降、阿里山林業村の一部である旧製材所跡は歴史遺産としての保存、整備がすすめられ、近隣にある林業鉄道の修理工場跡(現・嘉義鉄道芸術村)・旧宿舎群が集まる旧檜町一帯(現・檜意森活村)とともに一般公開されました。林業村では当時最新の火力発電機を備えた動力室、木材加工に用いられた乾燥室・加工場などの建物が見学できます。

学びのポイント

台湾の森林は現在もその大部分が国有地となっています。それはなぜでしょうか?

19世紀までに台湾本島の平野部は漢族系移民、山岳部は先住民の諸民族と住み分けられるようになっていました。19世紀末に台湾を領有した日本は、台湾本島全土の土地所有権を調査、先住民族が狩猟や採集などで利用していた山岳部の森林地帯の多くが、所有権の不明確な土地として国有地に組み込まれていきました。第二次世界大戦後に台湾を接収した中華民国政府は、日本統治期と同様に国有地の森林で林業経営を行い、伐採した材木の輸出を続けました。1990年代以降、新法によって先住民族への土地返還が行われるようになっています。

日本が台湾で鉄道敷設に力を入れた背景は?

日本が台湾統治をはじめた19世紀末、ガソリン自動車は人や物を輸送する手段としてまだまだ未成熟な存在でした。とくに木材や石炭といった重量のある物資を輸送するには鉄道列車を用いなくてはなりませんでした。また軍隊の大量の人員を移動させる手段も鉄道が最速でした。統治初期の台湾では各地で武装勢力の活動が盛んであり、まずは鎮圧のための軍隊を展開するため、次いで製材所や鉱山などで生産した物資を港まで運び「内地」や国外へ輸出するための基礎設備として自動車道路に優先して鉄道敷設を急がなくてはなりませんでした。

日本式宿舎群はなぜ戦後も残りつづけたのでしょうか?

第二次世界大戦での日本の敗北により、日本政府と日系企業が台湾に所有していた財産は中華民国政府に接収されました。接収の対象となった宿舎や社宅は、軍人、警察官、教員など中華民国政府の公務員宿舎として再利用されました。老朽化した宿舎はやがて居住困難となっていきましたが、国有財産であったことから周辺がビル化された後も処分がすすまず、残り続けました。1990年代以降、日本統治期の歴史が台湾の歴史の一部として注目されるようになると、忘れられつつあった旧宿舎も地域の歴史遺産として着目され、学習施設や観光施設としての補修整備がすすめられるようになっていきました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】阿里山の木材(ヒノキ材)が使われている日本国内の木造建築は少なくありません。それらの場所について調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】現在、嘉義市内を通る鉄道は台湾本島を南北に走る台湾鉄道と市の西へ向かい阿里山へつながる阿里山森林鉄道のみです。しかしかつては嘉義市内から東へも伸びる鉄道路線がありました。この路線の用途と歴史を調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】現在の台湾ですすんでいる日本との交流もふくめたまちおこし・地域おこしについて調べてみましょう。
参考資料
台湾の民族間関係や戦前戦後のインフラ建設については、赤松美和子・若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店、2016年)が大枠の参考になります。また特に鉄道建設全般については片倉佳史『台湾鉄路と日本人―線路に刻まれた日本の軌跡』(交通新聞社、2010年)が詳しく記載されています。台湾林業と先住民族の関係について専門書ではありますが陳元陽『台湾の原住民と国家公園』(九州大学出版会、1999年)が近世から1990年代までを細かく記載しています。

(前野清太朗)

ウェブサイト
公式https://afrch.forest.gov.tw/Ja/0000005
所在地
嘉義市東区林森西路4号