(倉本知明提供)

エリア
テーマ

戰爭與和平紀念公園主題館

戦争と和平記念公園主題館

台湾人兵士は誰のために戦ったのか?

高雄市旗津区は細長い島で、市内からは連絡船か海底トンネルを使って訪問できます。台湾海峡に面した旗津は美しい海岸と埠頭近くにある旗津天后宮や旗後砲台などの古跡が有名で、週末にもなると多くの観光客たちが訪れます。そんな島のちょうど真ん中あたりに、ある鎮魂施設が建っています。「戦争と和平記念公園主題館」と呼ばれるその施設には、第二次世界大戦から国共内戦、そして朝鮮戦争にいたる東アジアの戦乱の中で、所属する軍隊を変えながら動員されてきた台湾兵士たちの記念碑が立ち、関連資料が展示されています。

学びのポイント

忘れられた台湾の無名兵士たちに向き合い「戦争」を考える

第二次世界大戦から国共内戦、そして朝鮮戦争と、東アジアで相次いで起こった戦乱に多くの台湾人が兵士や軍属として動員されました。「戦争と和平記念公園主題館」には、日本軍、国民党軍、共産党軍それぞれの軍服を身にまとった台湾人兵士の写真が掲げられています。異なる民族や政権に動員された彼らはいったい何のために、そして誰のために戦ったのでしょうか。日本統治時代に徴用された20万に及ぶ台湾人元日本兵やその軍属の中には、戦後兵力不足に悩む国民党軍に組み込まれて国共内戦に動員された者もいました。やがて大陸の支配権を失った国民党軍が台湾へと撤退しますが、共産党軍の捕虜になった台湾人兵士たちの中には、さらに朝鮮戦争に徴用されて新たな戦地に向かわされた者もいました。日本政府に対しても、中華民国政府に対しても、中国共産党政府に対しても補償を求めることが困難な東アジアの地政学において、こうした台湾人無名兵士たちの辿った悲惨な過去を忘れないように、記念館の前に「台湾無名戦士記念碑」が立てられています。

「台湾無名戦士慰霊碑」を立てた許昭栄とは誰か?

かつて日本兵として戦地に赴いた多くの台湾の人々の中は、戦後は日本軍に協力したとして、国民党政府に睨まれる者が多くいました。台湾人元日本兵として太平洋戦争に参加し、戦後は中華民国兵士として中国戦線に派遣された経験を持つ許昭栄は、戦後は、さまざまな人権保障問題に取り組みました。例えば、台湾人元日本兵、元中華民国兵、元人民解放軍兵など台湾人兵士についての資料整理をはじめ、補償問題にも尽力しました。また、自身も政治犯として投獄された経験から、政治犯支援の活動も行いました。さらに、台湾人戦没兵士とその遺族たちのために旗津区の未整備の土地を高雄市から譲り受け、私財を投じてそこを整備し、「台湾無名戦士記念碑」の慰霊碑を建立しました。しかし、戦後の台湾では、台湾人元日本兵の福祉や慰霊の重要性は理解されておらず、さらに「戦争と和平記念公園」をただの「和平記念公園」に改名する計画もあるなど、台湾人元日本兵の名誉が守られないことを許昭栄は憂慮していました。2008年、国民党主席馬英九が中華民国総統に就任したその日、許昭栄は同記念碑の前で焼身自殺しました。遺書には台湾人兵士たちに対する長年の政府の理不尽な扱いへの批判などが書かれていました。享年80歳、多くの人がその死を悼みました。

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】陳千武『生きて帰る』(明石書店、2008年)など台湾人日本兵について書かれた小説を読んで、日本人作家の書いた戦争小説との違いを考えてみましょう。
  • 【現地体験学習】「戦争と和平記念公園主題館」に残された台湾人兵士や軍属、台湾人少年工や慰安婦などの資料を見学しましょう。
参考資料
台湾人元日本兵に関しては、日本語で多くの書籍が出ていますが、大まかな歴史的概略を知りたい人は周婉窈『図説 台湾の歴史』(平凡社、2007年)を参考にしてください。小説では、黄春明の小説「戦士、乾杯!」山口守監修『バナナボート 台湾文学への招待』(JICC出版局、1991年)にも日本軍、中華民国軍、人民解放軍の兵士を経験した先住民族の家族が登場します。ほかに元日本兵を描いた小説には、自身も日本兵として南洋に出征した経験を持つ陳千武が書いた『生きて帰る』(明石書店、2008年)や陳映真『戒厳令下の文学 台湾作家・陳映真文集』(せりか書房、2016年)などがあります。

(倉本知明)

ウェブサイト
戦争と和平記念公園主題館ホームページ:http://warpeace.khm.org.tw/
館内の資料館は日本語に対応しています。
所在地
高雄市旗津区旗津二路701号