見城館(倉本知明氏提供)

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見城館

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清朝時代へタイムスリップ? AR/VRで見る鳳山県(高雄)旧城の歴史―見城館と鳳山県旧城―

見城館はかつて高雄市眷村文化館と呼ばれていましたが、2018年に鳳山県旧城(現在の高雄市左営区)の歴史を紹介する歴史資料館として再建されました。見城館がある左営区鳳山県旧城付近は、かつて大陸から移住してきた軍人や公務員たちが暮らす眷村が広がっていた場所で、資料館も海光三村と呼ばれる眷村にあった診療室を改築したものです。見城館では鳳山県旧城の辿った盛衰史をプロジェクションマッピングなど、ハイテク設備を使って忠実に再現しています。訪問者は鄭成功の時代から清朝時代、そして日本統治時代から戦後へと至る鳳山県旧城の歴史と文化を、館内に設置されたAR/VRなどを使って楽しむことができます。見城館でヴァーチャルな歴史に触れた後は、直接資料館の外に出て、珊瑚石でつくられた鳳山県旧城の壁面や迷路のように入り組んだ城内を直接見て回れます。

学びのポイント

なぜ鳳山県「旧」城と呼ばれるのか?

清朝時代、朝廷が鳳山県(現在の高雄市)を統治する行政機関を現在の高雄市左営区に置いたために、当地は「鳳山県城」の名で呼ばれました。当初鳳山県城には城壁がつくられませんでしたが、1721年に羅漢門(現高雄市内門区)で起こった朱一貴事件を受けて、台湾史上初となる土壁を利用した城壁が建設されました。しかし、1787年に台湾中部で起こった林爽文事件の余波を受けた鳳山県城は再び破壊され、朝廷は左営にあった行政機関を埤頭街(現高雄市鳳山区)に移すことにしました。そこで埤頭街につくられた街を「新」城、左営にあった鳳山県城を「旧」城の名で呼ぶことになったのです。1826年には現在のような珊瑚石を使った堅固な城壁もつくられましたが、結局行政機関は埤頭街にある新城に移ったまま、日本統治時代を迎えることになったのでした。

なぜ旧城の路地には二つの名前があるのか?

神荼、鬱壘と呼ばれる門神の浮き彫りが施された鳳山県旧城の北門を奥へ進むと、旧城巷と義民巷と呼ばれる路地に至ります。どうして一本の路地に二つの名前があるのでしょうか? 1949年、国共内戦が中国共産党の勝利に大きく傾きかけていた頃、山東省渤海に浮かぶ廟島群島から多くの島民たちが台湾へと渡ってきました。共産党の支配から逃れて台湾にやって来た島民らは、政府から「義民」と称えられ、旧鳳山県城内に1人あたり5、6坪の小さな居住地が与えられることになりました。以降、元々旧城巷と呼ばれていた旧城内の路地は義民巷とも呼ばれるようになったのです。義民たちの暮らすエリアは東萊新村と呼ばれましたが、住民たちの多くは軍人や公務員ではなかったために、正式な眷村(官営住宅街)とは認められませんでした。迷路のように細く入り組んだ旧城内部には、今でも山東地方の方言が飛び交っています。

旧鳳山県城内(倉本知明氏提供)

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】鳳山県旧城北門前に残された二つの古跡、「拱辰井」と「鎮福社」を見学して、その来歴について調べてみよう。
  • 【事前学習】【事後学習】旧県城にあった古跡をリストアップして、それぞれの背景を調べてみよう。
  • 【現地体験学習】旧城内にある亀山は、かつて軍事拠点としても利用されていました。山上にどのような軍事遺跡が残されているのか探してみよう。
参考資料
左営旧城に関する日本語の書籍は少なく、日本語ではほとんど調べることができません。高雄市政府観光局に日本語での説明が掲載されているので、そちらの記事を参考にしてみて下さい。朱一貴事件、林爽文事件については、薛化元編、永山英樹訳『詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書』(雄山閣、2020年)の80-81頁を読んでみましょう。

(倉本知明)

ウェブサイト
公式Facebook(見城館)
https://www.facebook.com/cofch.khm/ (中国語)
所在地
高雄市左営区亀山巷157-2号

特記事項
旧城巷、義民巷には現在もたくさんの住民の方が暮らしているので、くれぐれもその生活を邪魔しないようにして下さい。