郭書瑜撮影

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高雄市二二八和平公園

高雄二二八和平紀念公園

高雄の視点から二二八事件を考える

二二八和平紀念碑(二二八事件慰霊碑)は、1993年に高雄の壽山に設置されました。二二八事件に関する資料が徐々に公開されてきたことにより、より多くの被害者の身元を確認できるようになりました。壽山の二二八和平紀念碑は都心から遠いため、被害者の遺族の要請もあり、2005年には、事件現場に近く、緑豊かな愛河沿岸の仁愛公園にも記念碑が設置されました。主碑には事件の詳細が刻まれ、被害者の名前を刻んだ壁は、周りの自然に馴染むように、公園の低木と同じ高さにデザインされています。壽山の旧慰霊碑は、台湾社会が長い戒厳期を経て、ようやく公式に二二八事件に向き合うことが可能になったという歴史的意義があるため、そのまま保存されています。

学びのポイント

二二八事件と高雄

1947年2月27日、台北市でタバコを売っていた台湾人女性に警察官らが暴行を加えるという事件が起こりました。それを引き金に、全島規模の抗議デモが行われました。そのうち、事件の発生後に高雄で最初に行われたデモに対し、高雄に駐留していた軍隊が行き過ぎた対応を取るなど、市民を銃撃する事件が多く起こりました。軍隊と市民との緊張関係を緩和するため、市政府は市民代表大会を開き、市民の意見をとりまとめ、軍隊を指揮する要塞司令部と数回の交渉を行いましたが、市民と軍隊の衝突を収束することはできませんでした。そこで、3月6日に市長は再び市民の代表を招き、市長、議長など7人で要塞司令部へ再交渉しに行きましたが、同日午後、要塞司令部長彭孟緝は様々な理由をつけて、高雄市を全面的に鎮圧しました。高雄市は全島で死傷者が最も多い地域でした。

郭書瑜撮影

二二八事件とその後

二二八事件以降も、全島規模で弾圧が続き、1949年5月には、戒厳令が敷かれました。1987年7月に戒厳令が解除されるまでの38年の間、二二八事件とその後の抗議デモやその鎮圧行動は、公に言及することができず、歴史教科書にも記載されませんでした。しかし、1980年代末からの一連の民主化運動によって、社会の空気が徐々に変化すると、二二八事件が公的な場でも語られるようになりました。この事件について総統が初めて謝罪したのは、1995年のことです。1990年代になると、政府は二二八事件の調査委員会を設立し、被害者とその遺族への賠償に関する法律も整備しました。歴史教科書にも、二二八事件が記載されるようになりました。また、民間では記念音楽会、展覧会など、数多くの記念活動が行われました。しかし、二二八事件に関する資料は、今なお全て公開されたとはいえず、事件の解釈、記憶は、個人の経験やエスニシティ、階級により大きく異なります。台湾の歴史の傷を知り、台湾社会がどのように過去に向き合い、和解を試みているかを学ぶことは、私たちにもとても大切なことなのです。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】二二八事件が発生した当時の台湾の政治的状況を調べてみましょう。
  • 【事前学習】高雄二二八和平紀念公園のほかに、どのような二二八事件関連施設があるか、「みんなの台湾修学旅行ナビ」で調べてみましょう。
参考資料
二二八事件の経緯や背景については、二二八事件紀念基金会のサイトで詳しく紹介されています。呉濁流『夜明け前の台湾 : 植民地からの告発』(社会思想社、1972年)は文学作品で、日本植民地統治下の台湾人の生活と、戦後、二二八事件が起こってからの台湾人としてのアイデンティティの葛藤を克明に描いています。二二八事件が今の台湾社会に与えた影響について、さらに学びたい方は、何義麟『台湾現代史:二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』(平凡社、2014年)、阮美姝著、張瑞廷イラスト『漫画 台湾二二八事件』(まどか出版、2006年)、薛化元著、李為楨・東山京子訳「二二八事件をめぐる歴史清算問題」『中京法学』(51巻2・3号、2017年)がおすすめです。

(郭書瑜)

ウェブサイト
高雄旅遊網(高雄市政府観光局)https://khh.travel/zh-tw/attractions/detail/269

(中国語)

所在地
高雄市塩埕区中正四路