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楊逵文學紀念館

楊逵文学紀念館

「潰れないバラの花」、楊逵の作品世界に触れる

楊逵文学紀念館は、日本統治時代から活躍し、文学運動だけでなく政治、社会運動にも携わり、日本統治期、戦後の国民党政権期ともに政治犯として投獄された経験を持つ作家楊逵(ようき・ヤンクイ)の功績を記念して、2005年11月に故郷台南市新化区にオープンしました。使われなくなっていた役所の建物を、国際的な建築デザイナー劉国滄がリノベーションしたもので、家族から寄贈された手書き原稿や私物等が展示されています。作品や経歴紹介などを通じて、日本統治時代を生きた台湾人作家の中で初めて台湾の国語教科書に作品「壓不扁的玫瑰(潰れないバラの花)」が採用された楊逵の人生、作品世界に触れてみましょう。記念館見学の後は、古い町並みが残る新化の街を散策するのもいいかもしれません。

学びのポイント

楊逵って誰?

楊逵は本名楊貴、日本統治時代の1906年に生まれ、1985年に79歳で亡くなりました。代表作「新聞配達夫」が、1934年に文芸雑誌『文学評論』の第二席に入選するなど、作家として有名ですが、抗日運動家としても知られており、10度にわたる投獄経験があります。楊逵は、日本の植民地統治が終わってからの国民党政権時代にも逮捕投獄され、12年間を台湾の離島で「監獄島」とも呼ばれた緑島で政治犯として過ごすことになります。抗日運動家が、なぜ植民地からの解放後も逮捕投獄され、長期間監獄で過ごすことになったのか。この問いを頭に入れながら、展示を通じて台湾の戦前戦後の歴史、また楊逵の理念や理想について考えてみてください。

楊逵と日本

楊逵はその人生のほぼ半分を日本統治下の台湾で過ごしました。台湾人児童を対象に設置された公学校を卒業後、上の学校への進学率が低い時代に台南州立第二中学校に進学、その後内地に留学して日本大学に籍を置きます。このように、子どもの頃から日本の教育を日本語で受けて育ったのです。戦前の作品は、「新聞配達夫」をはじめ、ほぼ日本語で書かれていますが、そこには日本の植民地統治への批判がこめられています。このことから、日本語で日本の教育を受ける=日本の植民地統治を受け入れるという構図は必ずしも成立しないことがわかります。また、楊逵の人生に大きな影響を与えた日本人が数人存在します。展示を見ながら、楊逵と日本・日本語・日本人との関わりについても注目してみてください。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】楊逵には日本語で書かれた作品が多くあります。「新聞配達夫」などの作品を読んでみましょう。
  • 【現地体験学習】記念館見学の後は、古い町並みが残る新化の街を散策してみましょう。
  • 【事後学習】日本語で作品を書いた台湾出身の作家はまだ他にもいます。最近では李琴峰が芥川龍之介賞を受賞しました。どんな作家、作品があるのか調べて、読んでみましょう。
参考資料
楊逵の日本語作品のうち代表的なものは中島利郎・河原功・下村作次郎・黄英哲編『日本統治期台湾文学 台湾人作家作品集』(緑蔭書房、1999年、全5巻、楊逵の作品は第一巻に収録)で読むことができます。また、中国語ですが、国立台湾文学館作成の「楊逵関係資料デジタルアーカイブ」があり、こちらでは作家の手書き原稿などが見られます。楊逵が生きた戦前戦後の台湾を通史的に学びたい場合は、若林正丈『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)、大東和重『台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」』(中公新書、2020年)などが新書なので手に取りやすく便利です。

(鳳気至純平)

ウェブサイト
公式 https://museums.moc.gov.tw/MusData/Detail?museumsId=cdc0f9f9-67b3-457c-bc53-4378232e7503

(中国語)

台南旅遊網(台南市政府観光旅遊局) https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4918
所在地
台南市新化区中正路488号