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湯德章紀念公園

湯徳章紀念公園

二二八事件で命懸けで民衆を守った弁護士・湯徳章を記念した公園

湯徳章紀念公園は、日本統治期には、地名にちなみ大正公園と呼ばれており、公園の中央には、台湾総督、児玉源太郎の銅像が置かれていました。戦後は、中華民国の国父、孫文の銅像に入れ替えられ、「民生緑園」と改称され、1998年には、二二八事件の際にこの地で公開処刑された弁護士の湯徳章氏を記念し、湯徳章紀念公園と名付けられます。2018年には湯徳章の胸像が建立されました。2001年、台南市は3月13日を「台南市正義與勇気紀念日(=正義と勇気の記念日)」に制定します。この地は、湯徳章を語っていると同時に台湾のナショナルアイデンティティーをめぐる変遷を表わした公園でもあります。

学びのポイント

湯徳章とは?

1907年、湯徳章は、日本人警察官の坂井徳蔵と台湾人の湯玉の子として、台湾で生まれました。元々台南州巡査を務めていた湯徳章は、職場では本島人(台湾人)として扱われます。湯徳章は、差別待遇に不満を感じて辞職、日本内地へ留学して弁護士資格を取得し、台湾に戻ります。台南で一番の繁華街である末広町で事務所を開き、教育を受ける機会に恵まれず、法知識に乏しい台湾人を多く助けました。戦後、湯徳章は国民党に加わり、台南市南区の区長を務めますが、この間も社会的弱者の立場に立つ人権派弁護士として、社会正義、民主思想、社会改革のために力を尽くしました。湯徳章の人生は、日本植民統治下における植民者と被植民者の微妙な力関係を表しています。

湯徳章と二二八事件

1947年、二二八事件が全島規模に拡大するなか、湯徳章は二二八事件処理委員会台南支部の治安班の班長に任命され、市内の治安維持を担いました。湯徳章は、デモ活動に加わった学生から武器を取り上げて当局に拠出し、学生たちが暴徒として扱われることを防ぎました。国民党の軍隊が台南に入り、大規模な鎮圧活動を行うと、彼は事件を首謀した日本人として逮捕されました。湯徳章は、事件に関わった人々を守るために、事件に関係するリストや資料を全て燃やし、拷問を受けても最後まで一人の名前も口にしませんでした。湯徳章は、大正公園にて公開銃殺されました。事件から約50年後の1998年に、処刑が行われた民生緑園(元大正公園)は「湯徳章紀念公園」と改称され、湯徳章の物語も50年間の沈黙を経て語られるようになりました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】【事前学習】【事後学習】二二八事件はどのような事件か調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】参考書籍に挙がっている天江(2018)等を読み、湯徳章英雄説がなぜ、どのように作られていったのか考えてみましょう。
  • 【事前学習】女性学やジェンダー研究者を調べ、彼ら/彼女らが書いた著作やネット記事を読んで感想を教えてください。
参考資料
二二八事件の概要については、SNET台湾YouTubeチャンネル「おうちで楽しもう台湾の博物館」の二二八国家紀念館(第7回)二二八紀念基金会のサイトを見てみましょう。韓石泉著『韓石泉回想録: 医師のみた台湾近現代史』(あるむ、2017年)の第13章には、台南における二二八事件の経緯が当事者の視点から詳しく書かれています。天江喜久(2018)「台南の「救世主」となった「日本人」 : 湯徳章英雄説の検証と分析」『日本台湾学会報』第20号は、戦後長い間無名の存在であった湯徳章が、1990 年代に入り、二二八事件関連の書物で紹介され始め、「民族の英雄」として語られるようになった現象を、門田隆将『汝、ふたつの故国に殉ず 台湾で「英雄」となったある日本人の物語』(KADOKAWA、2016年)を中心に検証しています。

(郭書瑜)

ウェブサイト
台南旅遊網(台南市政府観光旅遊局) https://www.twtainan.net/ja/attractions/detail/4794
所在地
台湾台南市中西区民生路一段6号