港を歩いてみると、さまざまな漁具が並べられ、漁船の形も一様ではないことに気付くでしょう。船首から台が突き出ている漁船は、カジキを捕る漁法の「突き棒(つきんぼ)漁」を行うためのものです。日本統治期に内地からもたらされたもので、船首の台に船員が立ち、海を泳ぐカジキに直接モリを打って仕留めるのです。
漁船の船首から突き出ている台。漁師がここに立ち、海を泳ぐカジキにモリを投げる(松田良孝撮影)
1920年代に鉄道の開通や市場の開設などが相次ぎ、台北など都市部での水産物の需要に応えられるようになったことで、南方澳の重要性が高まっていきます。第二次世界大戦後は港の拡張も行われています。最近では、2006年に延長12.9キロメートルの雪山トンネルが開通したことにより、バスやマイカーでの行き来も盛んになりました。人口500万を超える台北圏と1時間超で結ばれたことで、南方澳は行楽地として注目度が上がり、大消費地に水産物を供給する役割もより重要になりました。
沖縄とは近く、また、日本統治期に沖縄と南方澳を結ぶ航海ルートが定着していたため、戦後もしばらくの間は人々の行き来が続きました。「密貿易」とも呼ばれる私貿易も盛んに行われました。こうした貿易によって沖縄を含む日本での物不足を補っていたという側面もあります。沖縄の漁民たちは1960年代まで南方澳付近で漁を続けました。