松田良孝撮影

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南方澳漁港

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南方澳漁港

日本に一番近い台湾の港町で、海鮮料理の食材に触れる

南方澳の中心部にある南天宮に上がり、テラスから外を眺めてみましょう。大小の漁船が港を出入りする様子が眼に入るはずです。周囲の往来も活発で、行楽客を乗せた大型バスが行き交っているかもしれません。南方澳は台湾有数の港町のひとつで、海鮮料理に欠かせない食材を供給しています。南天宮のテラスから見える港は、日本統治期の1923年に整備されたものです。その翌年には台北方面とを結ぶ鉄道が整備され、漁獲物の輸送体制が強化されました。こうした機能の強化をきっかけとして、内地から多数の漁業従事者が出入りするようになるのです。南方澳は、台湾島の中で最も日本に近い場所で、日本の最西端である与那国島(沖縄県)とは100キロ余りしか離れていません。このため、日本統治期には多数の沖縄漁民が活動したほか、南方澳から台湾に上陸して、進学や就業のために台北などの都市部に向かう人もいました。第二次世界大戦後は、台湾で暮らしていた沖縄出身者や戦時中に台湾へ疎開していた沖縄出身者の引揚港としての役割を果たしていました。

学びのポイント

どのような漁が行われていますか?

港を歩いてみると、さまざまな漁具が並べられ、漁船の形も一様ではないことに気付くでしょう。船首から台が突き出ている漁船は、カジキを捕る漁法の「突き棒(つきんぼ)漁」を行うためのものです。日本統治期に内地からもたらされたもので、船首の台に船員が立ち、海を泳ぐカジキに直接モリを打って仕留めるのです。

漁船の船首から突き出ている台。漁師がここに立ち、海を泳ぐカジキにモリを投げる(松田良孝撮影)

南方澳はどのように発展していったのですか?

1920年代に鉄道の開通や市場の開設などが相次ぎ、台北など都市部での水産物の需要に応えられるようになったことで、南方澳の重要性が高まっていきます。第二次世界大戦後は港の拡張も行われています。最近では、2006年に延長12.9キロメートルの雪山トンネルが開通したことにより、バスやマイカーでの行き来も盛んになりました。人口500万を超える台北圏と1時間超で結ばれたことで、南方澳は行楽地として注目度が上がり、大消費地に水産物を供給する役割もより重要になりました。

日本統治が終わると、南方澳と日本の往来はとぎれたのでしょうか。

沖縄とは近く、また、日本統治期に沖縄と南方澳を結ぶ航海ルートが定着していたため、戦後もしばらくの間は人々の行き来が続きました。「密貿易」とも呼ばれる私貿易も盛んに行われました。こうした貿易によって沖縄を含む日本での物不足を補っていたという側面もあります。沖縄の漁民たちは1960年代まで南方澳付近で漁を続けました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】台湾では魚介類をどのように調理していますか。ガイドブックなどで事前に調べておくと、南方澳の港を歩くのが楽しくなるかもしれません。
  • 【事前学習】黄春明が書いた小説「海を見つめる日」(田中宏、福田桂二訳 『さよなら再見』1979年、めこん)の舞台は南方澳ですので、読んでみましょう。
参考資料
南方澳の成り立ちや沖縄との関係については松田良孝『与那国台湾往来記』(南山舎、2013年)、いわゆる「密貿易」については石原昌家『空白の沖縄社会史』(晩声社、2000年)、奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文春文庫、2007年)、専門書としては小池康仁『琉球列島の「密貿易」と境界線』(森話社、2015年)、沖縄と台湾の関係については又吉盛清『大日本帝国植民地下の琉球沖縄と台湾』(同時代社、2018年)、国永美智子ら編『石垣島で台湾を歩く』(沖縄タイムス社、2012年)。

(松田良孝)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003106&id=613 蘇澳觀光旅遊網(宜蘭縣蘇澳鎮公所)https://www.necoast-nsa.gov.tw/Area-Content.aspx?a=166&l=3
所在地
宜蘭県蘇澳鎮南正里2鄰江夏路85号(南方澳ビジターセンター)