中華民国交通部観光局提供、呉志学撮影

エリア
テーマ

紅毛城

pdf
紅毛城

台湾北部淡水にスペイン人、オランダ人、イギリス人がいた証

1628年、淡水河を見下ろす高台にスペイン人によって軍事、貿易、布教の拠点として要塞「サン・ドミンゴ城」が建てられました。1642年、当時台南を占拠していたオランダが台湾北部へと侵攻しスペインを撃退。スペインが撤退時に破壊したサン・ドミンゴ城の城跡近くに新たに強固な城砦「アントニオ堡塁」を築き、「紅毛城」と呼ばれるようになりました。1661年、鄭成功がオランダを台湾から駆逐した際、オランダは紅毛城の建物等を破壊し城を去りました。その後、台湾が清朝に統治されるようになり、紅毛城 は修復されました。1858年、淡水が開港すると、1863年にはイギリスが99年の契約で紅毛城を租借し、翌年英国領事館としました。以降、日本、中華民国と、台湾の統治者は変わりましたが、1972年にイギリスが中国と国交を結ぶまで、紅毛城は 第二次世界大戦末期の数年を除き英国領事館として使用され続けました。その後、所有者が何度か変わり、1980年以降、中華民国政府の管理下にあります。1983年には国家一級古跡(国の有形文化財)に指定されました。

学びのポイント

スペイン人はなぜ淡水に城を?

大航海時代の17世紀、ポルトガル人がマカオを貿易拠点にして大きな利益を上げていたことから、スペインやオランダも貿易拠点を求めて東南アジアに進出しました。先に台湾に目を付け、南部(今の台南)に上陸したのはオランダでしたが、その後を追うようにスペインが台湾北部に上陸。基隆のサン・サルバドル城に続き、淡水河の河口に建てたのがサン・ドミンゴ城です。スペイン人は淡水河を利用して台北盆地へと向かい、その勢力は、一時は今の新竹一帯にまで及びました。

中華民国交通部観光局、葉英晋撮影

紅毛城の名前の由来は?

オランダ人の髪の毛が赤いことから、台湾の平地先住民がオランダ人を「紅毛(赤毛)」と呼び、その城を「紅毛城」と呼ぶようになりました。紅毛城の「紅」は、建物の色とは関係ありません。建設当時の建物は灰色で、後にイギリス人によって赤く塗られ、今日に至っています。

イギリスはなぜ淡水に領事館を置いたのでしょうか?

大航海時代、オランダやスペインに代わり、新たに海の覇権を征したイギリスは、台湾の経済的な価値を高く評価し、天津条約、北京条約などの通商條条約の締結により開港した鶏籠(基隆)、淡水、安平(台南)、打狗(高雄)の各港町に洋行(貿易商)と領事館を置きました。当時、淡水では北部の茶葉や樟脳の輸出が盛んに行われており、貿易高もうなぎのぼりに増加していました。そこで、イギリスは1867年に清朝との間に99年間の「紅毛城永久租借契約」を結び、翌年、紅毛城に領事館を置いたのです。

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】スペインやオランダが淡水に紅毛城を築く30年ほど前、台湾に関心を寄せていた日本の武将がいます。それは誰でしょう。そして、その目的は何だったのでしょうか。
  • 【現地体験学習】紅毛城はもともと要塞として建てられました。建物のどんなところにその痕跡が見られましたか。
  • 【現地体験学習】淡水は、夏は高温多湿、冬は湿度が高く意外と寒い地域です。エアコンのなかった時代、紅毛城ではどのような工夫をして生活していたでしょうか。
参考資料
淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群については、藤野陽平「ユネスコ非加盟の台湾からの世界遺産登録に向けた動き : 社会的文脈によって揺れる文化遺産」(『国立民族学博物館調査報告」第36号、2016年)に詳しく紹介されています。台湾400年の歴史の流れを知るには、伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』)中公新書、1993年)を読んでみまし ょう。


(阿部由理香)

ウェブサイト
交通部観光局 https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003091&id=2129 新北市観光旅遊網(新北市政府観光旅遊局)https://tour.ntpc.gov.tw/ja-jp/Attraction/Detail?wnd_id=115&id=111773
所在地
新北市淡水区中正路28巷1号