1895年に台湾を領有した日本政府は、植民地統治の必要から、台湾で近代
教育を推進しました。公学校の普及と識字率の向上が台湾教育の基礎になっ
た一方、台湾人向けの教育機会は初等教育に限られ、学制も日本人と異なり
、日本の学校には進学出来ませんでした。
1922年、新たな同化政策で日台共学を唱えた台湾総督府は、台北高校や台
北帝国大学の設立を始め、台湾の中高等教育に取り組むはずでしたが、台北
帝国大学、台北高校にはいずれも、台湾人学生の数を1割以下に制限するとい
う不文律があり、台湾人学生はさらに不平等な状況に置かれ、中高等教育は
一般の台湾人にとっては手の届かない存在でした。
台北高校は日本統治時代の象徴的な最エリート学校であり、入学試験の難
しさで知られていました。台北高校に入学できる台湾人学生は、エリート中
のエリートでした。自分の努力の成果により高等学校生という身分を得たこ
とに加え、自由な学風に恵まれ、台北高校の台湾学生は文明知識を楽しむ機
会を得るとともに、差別からも逃れられました。
楊智寧提供
1945年の日本の敗戦で台湾は中華民国の領土になり、台湾の社会は再び激
しい変化を迎えました。当時の台湾には政府と民衆の対立だけではなく、台
湾人と中国大陸からの移民のあいだでも衝突がありました。激突の頂点にな
った台湾人デモの二二八事件は政府に弾圧されました。台湾社会は緊張と不
安に包まれました。それは、台北高校から新設された台湾師範学院において
も例外ではありませんでした。
1949年3月22日、師範学院の学生が自転車を二人乗りしていたという理由
で警察に取り調べられ、暴行を受けました。この事件は台湾大学と師範学院
の学生の不満を招き、数百名の学生が集まって警察局の前でデモをしました
。警察は世論の圧力に屈し2人の学生を釈放しましたが、この事件が共産党に
よるものだとしました。4月6日に警察及び軍隊が学校に侵入して数百名の学
生を逮捕、うち7人が死刑に処されました。この事件は逮捕の日付から、四六
事件と呼ばれます。四六事件後、戒厳令体制の下、師範学院は校内の思想教
育の強化を始めました。四六事件は自由自治の台北高校から保守的な師範学
校に転換する、重要なきっかけとなりました。
1990年代以前、台湾の公立中小学校の教員のポスト配置は、国立台湾師範
大学が率いる師範学校が握っていました。政府の公費補助がある上に、卒業
生の就職を保障する師範学校は、日本統治期初代学務部長・伊澤修二が台湾
に師範学校を導入して以来、国家とともにありました。戒厳期は、師範学校
で政府寄りの保守派教員を養成し、次世代の学生教育に影響を与えました。
しかし、1990年代の民主化運動により、教員養成の体系も解体され、多様
な道が現れました。これをきっかけに、国立台湾師範大学は総合大学に転換
し、学風も1950年代以来の保守的なものから、自由で開放的なものへと変わ
りました。また、民主化の過程で、台湾社会も日本統治時代の歴史を見直し
、多様な視点を生み出しました。師範大学を含め、台湾が日本統治時代に設
立した各高等教育機関は、長い間、日本統治時代の歴史に対しては、無視な
いしは曖昧な態度を取っていました。国立台湾師範大学も、かつては1946年
の台湾省立師範学院の設立を大学の歴史の起点としていましたが、近年は学
生との合意により、1922年の台北高校設立時に遡り、現在は2022年の創立百
周年記念活動の準備をしています。
このように、改めて国立台湾師範大学の歴史を知ることは、大学のアイデ
ンティティのみならず、同時に台湾社会民主化後のアイデンティティを探求
することにも繋がります。