日本統治時代以来の正門を通り抜けると、両側に西洋式の古典建築と大王椰子が佇んで
います。これらの建物は、帝大建設当初に建てられました。ローマやルネサンス時期の
建築のエレメントと飾りが見られ、構内には中庭があります。このような建築様式を採
用したのは、二十世紀初期欧米と共通した「大学」への想像、また、理性、秩序などの
理念を表すためです。その一方で、亜熱帯の台北なのに、大王椰子などの熱帯植物が植
えられ、南国のイメージを強く表しています。正門の右側の細い道に沿って歩くと「傅
園」に着きます。ギリシャ風の白いパルテノン神殿のような建物の下には、戦後の1949
年に学長の任にあった傅斯年先生が眠っています。「傅園」は帝大時代には熱帯植物園
でした。これらの建築と植物は台湾大学のランドスケープを構成しています。戦前から
戦後までの変化を考えながら歩いてみましょう。
人類学博物館
台北帝大は台湾人に歓迎されない中で設立されました。植民地統治下の台湾人は、日本
人しか進学できない大学ではなく、より多くの台湾人が通える初等中等学校を求めてい
ました。実際、台北帝大は、主に日本人の進学先であり、地域特性を備えた熱帯研究を
進め、南進基地の役割も果たしました。設立初期には「土俗人種学」「南洋史」「熱帯
農業」などの講座があり、戦争中には「熱帯医学」「南方人文」「南方資源」などの研
究所が設立されました。現在まで数多くの学術標本、文物が収集されており、人類学博
物館、植物標本館などでは、帝大時期からのコレクションを展示しています。また、「
蓬莱米」の父と呼ばれた磯永吉とゆかりのある「旧高等農林学校作業室」もオープンし
ています。元図書館の校史館からスタートして、知の生成の足跡とその背後にある権力
との関係をたどってみましょう。
「傅鐘」は台湾大学のシンボルの一つです。「傅」は傅斯年学長のことです。この鐘は
「一日は21時間であり、残りの3時間は考える時間だ」という彼の名言に基づいて、授
業ごとに21回の鐘の音が響き、自由主義の精神をも象徴します。白色テロの発端と目さ
れている1949年の「四六事件」という学生逮捕事件に際して、彼の非暴力的な主張も常
に称賛されてきました。しかし、近年、関係者の回顧録やオーラルヒストリー(関係者
からの聞き取り)により、彼が政府当局と協力していた面もあったことが発見されまし
た。これを踏まえて、キャンパス内での政治受難事件、ランドスケープ、校史の記載な
どについて、歴史的な調査を通して再検証すべきだという主張が学生側から提起されて
います。このようなプロセスを通して大学は、個人崇拝ではなく、「人間」の複雑な面
に迫り、また、被害者の記念のみならず、加害のメカニズムをも解明する「移行期正義
」の実践に乗り出すことが可能になるでしょう。
傅鐘と大王椰子