四連棟は4棟の和式家屋がつながっている建物で、日本統治期、中華民国期とも職員の住宅でし
た。その向かいには金瓜石鉱山所長宿舎がありますが、一般には公開されていません。太子賓
館は、当時鉱山を経営していた田中鉱山株式会社が、1923年に台湾をおとずれた皇太子の滞在
先として建てたとされる和洋折衷家屋ですが、結局皇太子が金瓜石に立ち寄ることはありませ
んでした。黄金館に隣接する本山五坑では、もともとの坑道に新たに坑道をつけ足し、採掘の
様子が再現されています。
四連棟
日本統治期の金瓜石神社の跡です。鳥居や石灯籠、幟立てなどを見ながらけわしい旧参道を登
っていくと、平らにならされ、コンクリート柱が何本か立つ一画に出ます。ここにかつて拝殿
や本殿がありました。1897年に操業を始めた金瓜石鉱山田中事務所が翌年神社を設置し、1936
年に建てかえられた二代目の社屋の遺構が残っています。気候や虫害による腐食を防ぐため、
二代目の社殿にはコンクリートの柱が採用されたようです。
日中戦争が長期化していた1941年(一説には1942年)、鉱山関係者や有力者ら100余名が中国側と
の密通や武器の密造の疑いで捕えられ、うち33名が判決を受けないまま獄中で死去しました。
金瓜石事件と言います。台湾総督府による人権抑圧、思想統制がもたらした冤罪事件だったと
して、地元の小学校の同窓会が園内の郵便局前に記念碑(岩石)を設置し、毎年ここで追悼式典
を開いています。また博物園区から水湳洞の方向へ下ったところにある国際終戦和平紀念園区
は、1942年から1945年まで英連邦諸国などの兵士の捕虜収容所があったところです。かれらは
、劣悪な環境のもと鉱山労働に従事させられ、命を落とした者も少なくありませんでした。
金瓜石事件記念碑