冨田哲撮影

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新北市立黃金博物館

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金瓜石 黄金博物園区

金瓜石の山肌に残る鉱業遺跡を利用した博物館

九份から山道をバスで10分ほど走ると金瓜石に着きます。金瓜石では、日本統治期には日本の民間企業、国民政府来台後は政府機関あるいは国営企業によって金や銅などの採掘がおこなわれていましたが、1987年に操業が終了しました。その敷地や施設を利用して2004年にオープンしたのが新北市立金瓜石黄金博物館です。かつて鉱山で仕事をしていた住民が、施設の保存を行政や地域住民など各方面にはたらきかけて実現したということです。園内には、鉱山の歴史、採掘や精錬の技術、鉱員の日常、金瓜石の地質を構成する鉱石の展示をしているメインの黄金館のほか、日本統治期の神社跡や皇太子(後の昭和天皇)来訪のために建てられたとされる家屋などもあります。

学びのポイント

黄金館のほかにはどんな施設が?

四連棟は4棟の和式家屋がつながっている建物で、日本統治期、中華民国期とも職員の住宅でした。その向かいには金瓜石鉱山所長宿舎がありますが、一般には公開されていません。太子賓館は、当時鉱山を経営していた田中鉱山株式会社が、1923年に台湾をおとずれた皇太子の滞在先として建てたとされる和洋折衷家屋ですが、結局皇太子が金瓜石に立ち寄ることはありませんでした。黄金館に隣接する本山五坑では、もともとの坑道に新たに坑道をつけ足し、採掘の様子が再現されています。

四連棟

神社跡とは?

日本統治期の金瓜石神社の跡です。鳥居や石灯籠、幟立てなどを見ながらけわしい旧参道を登っていくと、平らにならされ、コンクリート柱が何本か立つ一画に出ます。ここにかつて拝殿や本殿がありました。1897年に操業を始めた金瓜石鉱山田中事務所が翌年神社を設置し、1936年に建てかえられた二代目の社屋の遺構が残っています。気候や虫害による腐食を防ぐため、二代目の社殿にはコンクリートの柱が採用されたようです。

第二次世界大戦期の記憶

日中戦争が長期化していた1941年(一説には1942年)、鉱山関係者や有力者ら100余名が中国側との密通や武器の密造の疑いで捕えられ、うち33名が判決を受けないまま獄中で死去しました。金瓜石事件と言います。台湾総督府による人権抑圧、思想統制がもたらした冤罪事件だったとして、地元の小学校の同窓会が園内の郵便局前に記念碑(岩石)を設置し、毎年ここで追悼式典を開いています。また博物園区から水湳洞の方向へ下ったところにある国際終戦和平紀念園区は、1942年から1945年まで英連邦諸国などの兵士の捕虜収容所があったところです。かれらは、劣悪な環境のもと鉱山労働に従事させられ、命を落とした者も少なくありませんでした。

金瓜石事件記念碑

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【現地体験学習】【事後学習】金瓜石と隣の九份では、鉱山町としての発展過程にどのようなちがいがあったでしょうか。
  • 【現地体験学習】金瓜石で採掘された鉱石はその後どこへ、どのように運搬されたのでしょうか。
  • 【現地体験学習】【事後学習】金瓜石事件の記念碑が置かれたのは事件から70年以上たった2014年のことですが、毎年ここで追悼式典が開催されています。地元の人々のどのような思いがこめられているのか考えてみましょう。
参考資料
林雅行『台湾・金鉱哀歌』(→「九份」の項参照)は、金瓜石の歴史をわかりやすくまとめていて、かつて鉱員だった人々の声も多数紹介しています。林の監督作品である『雨が舞う~金瓜石残照~』の台本もおさめられています(作品そのものは販売されていないようです)。古い本ですが、実業家の石山賢吉が1940年に書いた旅行記『紀行 満州・台湾・海南島』(ダイヤモンド社、1942年)に「金瓜石金山」という章があります。専門的ですが、波多野想「金瓜石鉱山の文化的景観を再読する」『新北市立黄金博物館 2019年学刊』の第2節「金瓜石鉱山の開発略史」も参考になるでしょう。


(冨田哲)

ウェブサイト
新北市立黄金博物館https://www.gep.ntpc.gov.tw 交通部観光局 https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003091&id=C100_54 新北市観光旅遊網(新北市政府観光旅遊局) https://tour.ntpc.gov.tw/ja-jp/attraction/Detail?wnd_id=115&id=111669
所在地
新北市瑞芳区金瓜石金光路8号