山﨑直也撮影

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慈湖紀念雕塑公園

慈湖紀念雕像公園

全国から集まった200体以上の蔣介石像が物語る台湾政治の変化

豊かな緑に囲まれ、慈湖という美しい湖と隣り合う慈湖紀念雕像公園には、実に200体以上もの“ある人物”の銅像が立ち並ぶ奇観が広がっています。銅像の主は蔣介石。1948年5月20日に中華民国総統に就任、一時下野することはあったものの、1975年4月5日に亡くなるまで終生その地位にあった人物です。国共内戦の中で、中華民国政府を中国大陸から台湾に移し、「強人(ストロングマン)」として君臨した蔣介石の評価は、台湾の民主化を経て大きく転換しました。かつて全国の公共機関、学校、企業に置かれた銅像たちが民主化後に行き場を失い、集まったのがこの公園です。蔣介石の遺体を安置する慈湖陵寝をはじめ、周辺には蔣介石ゆかりの場所が数多くあります。

学びのポイント

両蔣紀念文化園区の「両蔣」とは?

慈湖紀念雕像公園は、両蔣紀念文化園区と呼ばれるエリアの中にあります。「両蔣」とは、前述の蔣介石とその息子で1978年から88年まで中華民国総統を務めた蔣経国のことです。公園周辺には、「両蔣」ゆかりのスポットが数多くあります。雕像公園を訪れたその足で、蔣介石が母・王太夫人(王采玉)を懐かしんで埤尾から名を改めた慈湖、その傍らにあって蔣介石の遺体を安置する慈湖陵寝、慈湖陵寝から徒歩30分ほどの場所にあって蔣経国の遺体を安置する大溪陵寢と隣接する経国紀念館を一度に見て回ることができるのです。

慈湖陵寝の前身は?

戦後台湾で強大な権力を誇った蔣介石のため、台湾島だけでなく澎湖島、金門島、馬祖島も含めて約30もの行館(視察時や休暇、接待などで使用する建物)が設置されました。蔣介石の遺体を安置する慈湖陵寝も、元は洞口賓館と呼ばれる行館の一つでした。故郷の浙江省渓口鎮に似ているとして、蔣介石が好んだこの場所に行館が建てられたのは1956年のこと。その用地は台湾の名家である林本源家から提供されたものです。また、大渓市街地の蔣公紀念堂は、日本統治時代の公会堂の建物ですが、こちらも戦後は行館として使用されました。同じ桃園市で大渓区と隣り合う復興区にも角板山行館があります。

慈湖紀念雕像公園002(山﨑直也撮影)

台湾の民主化と「強人政治」の終わり

民主化により台湾社会における蔣介石の評価は大きく変化し、ストロングマンの脱神格化が一気に進みました。蔣介石を意味する「中正」の名を冠された中正国際空港は2006年に台湾桃園国際空港と改称し、かつて複数の紙幣に印刷された肖像画も、現在は流通量の少ない200元紙幣にその姿を残すのみとなりました。蔣介石の在任中、全国の公共機関、学校、企業に、彼の銅像が置かれていましたが、時代の変化によって役目を終えた銅像の処遇に困った全国の所有者から、次々と公園に寄贈され、様々なポーズの銅像が200体以上もこの場所に集まりました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】桃園市内にある両蔣(蔣介石・蔣経国親子)ゆかりの場所について調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】民主化後の台湾における蔣介石の評価の変化について、具体的な事例をできるだけ調べてみましょう。
  • 【現地体験学習】慈湖遊客中心(ビジターセンター)には、蔣介石・蔣経国親子グッズの他に蔣介石の家族が好んだあるお菓子が売られています。そのお菓子は何で、それを好んだ人物は誰か、現地で確かめてみましょう。
参考資料
入手しやすくかつ読みやすいものとしては、伊藤潔『台湾』(中公新書、1993年)があり、本格的な学術書としては、若林正丈『台湾の政治』(東京大学出版会、2008年)がありますが、戦後台湾の歴史、特に政治史の理解があれば、この場所を楽しみ多くを学ぶことができるでしょう。いきなり本は難しいという人は、蔣介石が死去した日に生まれた一人の女性の成長と台湾の政治、社会の変化を表裏に描いた長編アニメ映画『幸福路のチー』(2018年)を視聴するのもよいでしょう。蔣介石については、入手しやすい評伝として保坂正康『蔣介石』(文春新書、1999年)がありますが、こちらも蔣介石の妻・宋美齢を含む名家の三姉妹を描いた映画『宋家の三姉妹』(1997年)を観ることで、人物になじみが生まれるかもしれません。桃園市の教育旅行向けガイドブック『桃園散策』にも詳しい情報が掲載されています。

(山﨑直也)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003107&id=8555 桃園観光導覧網(桃園市政府観光旅遊局)https://travel.tycg.gov.tw/ja/travel/attraction/797
所在地
桃園市大渓区復興路一段1097号