冨田哲撮影

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九份

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九份

ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞『悲情城市』の舞台―人々を吸い寄せた金鉱の町

日本統治期初期、九份の金鉱の採掘や河川での砂金採取の権利を握っていたのは藤田組という日本企業でしたが、その後、基隆顔家の顔雲年(→「瑞芳の鉱業遺跡群」の項参照)が勢力を拡大していき、1910年代には一帯の金鉱の経営を掌握するにいたりました。鉱山で働く人々で町は活況を呈し、「小上海」「小香港」の異名をとるほどでした。第二次世界大戦後も金の採掘は続きましたが、管理政策の強化や1960年代の国際的な金価格の低迷、採掘量の減少などにより利益をあげることが困難になりました。顔家の台陽公司は1971年に九份の金鉱を閉じ、町もにぎわいを失います。しかし、1989年の映画『悲情城市』などが九份一帯を舞台としたことで注目が集まり、観光地として生まれ変わりました。

学びのポイント

『悲情城市』とはどのような作品?

今日、台湾映画界の重鎮になっている侯孝賢の監督作品で、脚本は呉念真(→「瑞芳の鉱業遺跡群」の項参照)です。ポツダム宣言受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が流れるなか、九份で酒楼を経営する家族に子どもが生まれるシーンから物語が始まります。国民政府の来台、社会や経済の混乱、二二八事件など、第二次世界大戦直後の激動が、この山あいの町を拠点として語られます。1989年と言えば戒厳令が解除されて日が浅いころで、二二八事件前後の台湾社会を描写すること自体、けっして容易ではありませんでした。

金鉱にかかわる遺跡は?

顔雲年は1920年に台陽鉱業株式会社を設立、1948年には社名が台陽鉱業股份有限公司となりました。九份派出所向かいの、その名も台陽停車場(台陽駐車場)のそばに、1937年に建てられた同社の瑞芳弁事処(瑞芳事務所)があります。ただし、内部は公開されていません。坑道の入口もいくつか残っていますが、いちばんわかりやすいのは台陽五番坑でしょう。後述の昇平戯院から軽便路(かつて金瓜石、九份、瑞芳を結ぶ軽便鉄道が走っていた通り)をしばらく歩いたところに五番坑の入口があります。さらにその先の頌徳公園には、顔雲年をたたえて1917年に建立された碑があります。

台陽工業瑞芳弁事処

鉱員たちの娯楽の場は?

軽便路と豎崎路が交差するところに昇平戯院があります。1934年に昇平座としてオープンした映画館です。映画『多桑 父さん』(→「瑞芳の鉱業遺跡群」の項参照)には、息子を連れた主人公が同僚の鉱員たちとともに、活動弁士の台湾語での語りを聞きながら『君の名は』(監督:大庭秀雄、1953年)を見ている場面がありますが、このシーンは昇平戯院でのロケです。1986年に閉館しましたが、修復工事を経て2011年から内部が公開されています。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】映画『悲情城市』を見て、九份およびその周辺がどのようなところだったのか、イメージをつかんでおきましょう。
  • 【事前学習】日本では、宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』の舞台とされていますが、なぜそのように言われているのか、調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】日本統治期初期に九份で金の採掘や採取の権利を握っていた藤田組について調べましょう。台湾に進出する前の時期、どのように発展した企業でしょうか。
  • 【現地体験学習】『悲情城市』にも登場しますが、豎崎路の石段の両側には、かつて飲食店や遊郭などが軒を連ねていました。金鉱最盛期の鉱員たちの思いを想像しながら歩き回ってみてください。
参考資料
上記の『悲情城市』は、日本語字幕つきのDVDが販売されています。赤松美和子・若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店、2016年)の「第3章 歴史③」および「第4章 歴史④」などを参照すれば、日本統治期から中華民国期を通じた九份の変遷も理解しやすいでしょう。九 份と金瓜石でそれぞれドキュメンタリーを映画を撮った林雅行の『台湾・金鉱哀歌』(クリエイティブ21、2009年)は、九份の歴史をわかりやすくまとめていて、かつて鉱員だった人々の声も多数紹介しています。林の監督作品である『風を聴く~台湾・九份物語~』の台本もおさめられています(作品そのものは販売されていないようです)。

(冨田哲)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003091&id=290 新北市観光旅遊網(新北市政府観光旅遊局)https://tour.ntpc.gov.tw/ja-jp/Attraction/Detail?wnd_id=115&id=111871
所在地
新北市瑞芳区基山街