台湾では17世紀には野生のお茶の木が自生しており、18世紀になると福建省から台湾に渡った人びとがお茶の木を栽培して、お茶を生産するようになったという記録が残されています。もともと、台湾の亜熱帯気候はお茶の生産に適しており、さらに土壌が少しやせた酸性であることや、他の作物の栽培ができない傾斜地でも育ち、山地でも栽培できることなど、お茶は台湾で生産しやすい作物でした。
歴史上、台湾ではお茶の大半は他の地域へ売ることを前提として生産されていました。清代末期の1858年に締結された天津条約にもとづき、台湾が貿易港として開かれる以前は、福建省やマカオとの交易で扱われ、開港後は欧米にも輸出されるようになりました。開港期のお茶の輸出額は総輸出額の50%以上を占めるほどでした。お茶の栽培は年を追うごとにさかんになり、1892年のお茶の生産量は1866年の100倍にまで増加しました。日本統治時代以前は閩南語を話す人びとのネットワーク内でしか交易できませんでしたが、日本統治時代になると、日本の船会社の航路拡充に伴い、お茶の販路が拡大し、タイへ包種茶を輸出できるようになるといった変化もありました。同じ茶葉が、加工の仕方の違いによって緑茶や烏龍茶、紅茶と異なる風味のお茶になるため、台湾総督府殖産局は産業振興策の一環として、インドのアッサム茶の茶樹を台湾に導入し、紅茶の生産と輸出にも力を入れました。
戦後もしばらくはお茶を海外へ輸出する貿易構造に変化はありませんでしたが、1970年前後の高度経済成長期になると、農村での働き手の不足、人件費の高騰を背景として国際市場での競争力低下が顕著となり、お茶の生産量は次第に減少しました。こうしたなか、輸出頼みから内需型への転換や人件費の安い海外への生産拠点の移転などが図られました。さらにお茶の付加価値を高めるために台湾独自の茶芸と結びつきました。現在の台湾でのお茶の消費量は1980年代の約5倍に増えています。タピオカミルクティーが春水堂で「発明」された時期も、こうした台湾社会におけるお茶の位置づけが変化する時期と重なっています。新北市坪林茶業博物館の設立も、台湾社会と台湾茶の文化の変化のなかに位置づけることができそうです。
博物館内部の展示(八尾祥平撮影)
かつての台湾では、商品作物の主要な流通網は水路でした。お茶も山地ならばどこでも栽培していたわけではなく、輸送に便利な河川沿いでの生産が中心でした。坪林も北勢渓という河川沿いの地域にあります。ここで生産されたお茶は他の河川が淡水河へと合流する大稲埕で集約・加工され、その後港に移されて、海外へと輸出されました。
現在の北勢渓ではかつてのような水路による輸送は行われてはいません。しかし、SUP(スタンドアップパドルボード)などのアウトドア活動を楽しむ人びとが訪れ、近隣にはキャンプ場があり、台北市の近くに位置しながら非常に豊かな自然が楽しめます。さらに、博物館の付近にある坪林老街では伝統的な街並みが見られるだけでなく、住民が軒先でお茶を飲みながらおしゃべりをして過ごすというかつてののんびりとした台湾の空気も感じられます。博物館だけでなく、坪林老街にも足を運び、その雰囲気を味わうことを強くお勧めします。
坪林のお茶畑(八尾祥平撮影)
北勢渓(八尾祥平撮影)
坪林老街(八尾祥平撮影)
新北市坪林茶業博物館の裏手には、茶芸と結びついた美しい庭園があります。また、坪林生態園区では茶郊媽祖が祀られています。媽祖とは、中国・台湾・東南アジアの各地で信仰されている航海の安全を司る女神です。台湾で茶業が始まったころ、茶葉を摘んだり、乾燥させたりするための人手が足りず、福建省からの出稼ぎ労働者を雇い入れていました。彼らは春にやってきて、契約期間が終わる秋になると福建省へと帰っていきました。このため、茶業を営む人びと(彼らのことを茶郊と呼びます)にとって航海の安全は大きな関心事でした。こうした背景から、茶業を営む人びとたちは「茶郊媽祖」を祀りました。現在、福建省と台湾との行き来は勿論ないものの、「茶郊媽祖」の本尊が台北市茶商業同業公会で祀られ、毎年旧暦9月22日に祭礼が行われています。坪林の茶郊媽祖像はそこから分霊されたものです。媽祖信仰は観音信仰ともセットになっており、坪林の観音台では観音菩薩が祀られています。媽祖信仰は台湾茶業の歴史にも深く結びついており、媽祖を知ることは単に宗教を学ぶことにとどまらず、台湾社会と文化を学ぶことにもつながります。