黒羽夏彦氏提供

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張學良文化園區

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張学良文化園区

台湾からも隔たれた貴公子の旧宅

張学良文化園区は新竹の清泉温泉に設置された文化公園であり、新竹駅から南東へ約45km、または内湾線竹東駅から南へ約30kmのところに位置します。清泉は雪山山脈の西側に当たり、かなり山深い温泉地です。タイヤル族やサイシャット族の住む集落があります。日本統治時代に警察官が温泉を掘り出し、井上温泉と名付けました。第二次世界大戦後しばらくしてから、清泉温泉と呼ばれるようになります。下の年表の通り、かつて張学良が5、6年ほどここに軟禁されていました。当時の家屋は後の台風で流されたものの、2008年12月に新竹県と五峰郷が張学良を記念し、少し場所を移して「張学良故居」を再建します。2014年にはこの旧宅一帯を「張学良文化園区」に位置付けました。


1946年11月2日、重慶から台北へ。陽明山に泊まる。
1946年11月3日、新竹井上温泉へ。
→後に「張学良故居」が再建され、付近が「張学良文化園区」になる。
1948年、高雄西子湾へ。
1949年、再び新竹井上温泉へ。
1954年、再び高雄西子湾へ。
1959年、台北北投の台航招待所へ。
→後に、ここがレストラン「少帥禅園」になる。
1961年、台北北投の復興三路に定住する。
→後に、ここが台北では「張学良故居」と呼ばれる。
(蘇墱基『張学良生平年表』台北:遠流出版公司、1996年に基づき作成)

学びのポイント

張学良とは?

張学良(1901-2001)は、満洲(現在の中国東北部)出身の軍人です。奉天軍閥のリーダーである張作霖の長子として生まれました。満洲の貴公子として注目された彼は、張作霖爆殺事件(1928年)の後に若くして父の仕事を継ぎ、国民政府に合流して中華民国の全国統一に寄与し、そのため蔣介石に次ぐ中国のNo.2となります。しかし、満洲事変(1931年)で日本軍に故郷から追われ、華北にて掃共戦(共産党殲滅作戦)に従事します。
1930年代の中国は「内憂外患」(国内での反政府活動と外国による侵略)に直面していました。中国のリーダーである蔣介石は、「安内攘外」(先に共産党を殲滅して国内を統合してから、日本の中国侵略を掃う)の政策を採ります。一方、張学良は、「停止内戦一致抗日」(国共内戦をやめて、中国が一致団結して日本の中国侵略に抵抗する)を主張し、1936年12月12日に西安で蔣介石を軟禁して、武力を背景に政策を転換するよう蔣介石に迫ります(西安事件)。蔣介石が政策転換を受け入れたのかどうかはさておき、その後の歴史は張学良が望んだようになりました。同時に、壊滅寸前だった中国共産党は、西安事件をきっかけに息を吹き返します。
張学良は事件勃発2週間後のクリスマスの日に蔣介石を解放し、同伴して空路で西安から当時の首都南京へ蔣を送り届けると、南京の軍事法廷で裁かれ、軟禁されてしまいます。1937年夏に日中戦争(抗日戦争)が始まると、中華民国は拠点を南京から長江を遡った重慶へ遷します。さらに抗日戦争後に再び国共内戦が勃発し、中華民国は1949年末に台湾へ撤退します。張学良は軟禁状態のまま陸路で南京から重慶へ、そして空路で台湾へ移送されました。

張学良はなぜ幽閉されていたの?

張学良が幽閉されたのは、彼が西安事件の内幕を知っていたからでしょう。抗日戦争後の国共内戦で、蔣介石は自身をリーダーとする中国国民党が中心になって中国を統治すべきだと主張して、毛沢東をリーダーとする中国共産党と、中国統治の主導権争いを展開します。国民党の主張は1949年10月に共産党が中華人民共和国の建国を宣言し、国民党が中華民国の中央政府を引き連れて台湾へ移転した後も、さらに1975年に蔣介石が死去しても、なお続きます。西安事件での蔣介石の実際の行動は、蔣介石の偉大さを傷つける内容であった可能性が高く、それゆえに中華民国や国民党は張学良に真相を暴露されるのを恐れ、張学良を幽閉し続けたのでしょう。1990年6月に台北の圓山ホテルで張学良90歳の誕生日会が開催され、久しぶりに公の場に姿を現しました。これは、台湾の民主化が進み、蔣介石の脱神話化が進んだ時期にほぼ重なります。

NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』(角川書店、1991年)の表紙、p.13

なぜ張学良は注目されるの?

なぜ台湾で張学良が注目されるのか、実はよくわかりません。ここまでの説明からもわかるように、張学良はほとんど台湾と関わっていません。国民党政権が約40年間にわたり、張を台湾の山奥に閉じ込めていたのです。 1990年代以降、台湾で民主化が進み、表舞台からは消されていた張学良についても、関心が集まりました。例えるならば、伝説的なプレイボーイの「あの人は今!?」です。蔣介石に銃口を向けた人物に対して、判官贔屓があったのかもしれません。 同じく1990年代には中華人民共和国が国際社会で影響力を強め、台湾との関係についても再考し始めました。中華人民共和国が台湾海峡の両岸(つまり中台)を繋ぐことのできる人物として、張学良を利用します。21世紀になり中国大陸から台湾への観光旅行が解禁されると、台湾への中国人観光客が増え、張学良は観光資源となります。張学良を題材とする書籍、映像、グッズも売り出されました。それにともない、中国人観光客が興味を持ちそうな人物にまつわる観光スポットも整備されたのでしょう。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】 近代中国における国共合作や国共内戦について、調べてみましょう。また、張作霖爆殺事件(1928年)、満洲事変(柳条湖事件、1931年)、西安事変(1936年)、盧溝橋事件(1937年)をキーワードに、日中戦争の背景を概括しておきましょう。
  • 【現地体験学習】新竹や竹東の市街から清泉までの険しい道のりを体感しましょう。張学良が幽閉されていたころはジープを使い、雨天では通行を見合わせたそうです。付近の施設にも足を延ばしましょう。原住民族館には、サイシャット族(賽夏族)の文物が展示してあります。作家の三毛(1943-1991年、邦訳『サハラの歳月』あり)の過ごした家(三毛夢屋)や、タイヤル族やサイシャット族のために丁松青(Martinson Kieth Barry)神父が開いたカトリック教会(清泉天主堂)もあります。それから、温泉にも入ってみてください。
  • 【事後学習】20世紀後半から現在までの台湾海峡両岸関係の変遷を、国民党と共産党に着目しながら調べてみましょう。
参考資料
まずは、NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』(角川文庫、1995年)を読みましょう。これは再び公の場に現れた張学良に、世界でいち早くインタビューした記録です。張学良という人物については、松本一男『張学良:忘れられた貴公子』(中公文庫、1991年)や、傅虹霖『張学良:その数奇なる運命』(連合出版、1995年)といった伝記があります。白雲荘主人『張作霖』(中公文庫、1990年)でも、張学良に触れています。また、西村成雄『張学良:日中の霸権と「満洲」』(岩波書店、1996年)は、張学良を通じて20世紀前半の中国政治の特徴を論じています。ただし、残念ながら、いずれも台湾における張学良について正面から論じていません。台湾での張学良について日本語で読めるのは、若松大祐「官製の修史と個人の自叙:1950年代後半台湾における蒋介石と張学良」『近代中国研究彙報』27号(東洋文庫、2005年3月)です。ただし専門的な内容です。

(若松大祐)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003016&id=A12-00171
所在地
新竹県五峰郷桃山村清泉256-6号