日本統治時代、バスやタクシーなど公共交通の会社経営で成功した流水伊之助という日本人実業家が、会社の近くに自宅として建てました。流水が経営していた流水バス、基隆乗合タクシー株式会社は、現在の基隆市営バスの前身です。
かつてこの大沙湾エリアには、1903年に開かれた台湾で最初の海水浴場が広がっていました。少し高台になっている場所にある基隆要塞司令官邸からは当時、風光明媚な基隆の海辺を見渡せたことでしょう。本建築の構造は、日本の土蔵造り(厚い土壁を持ち窓が小さい)です。使用された木材は日本統治時代においても品質が高く、同じ時代の日式木造建築である公務員宿舎に比べ規模も空間も贅沢なものでした。流水伊之助は、自らの事業の成功の証としてこの建物を建てたのでしょう。
栖来ひかり氏提供
基隆要塞司令官邸
基隆要塞司令官邸
基隆のかつての浜辺を想像しながら歩く
この建築は日本統治時代の1931年に、日本人実業家の自宅として建てられました。第二次大戦後は中華民国国防部に接収され、「要塞司令官邸」として利用されます。基隆要塞司令部自体は1957年に撤去され、官邸の建物は基隆要塞司令部最後の司令官が暮らした後は、李という姓の一家に貸し出されました。1988年に取り壊しが予定されていましたが、地元の郷土史家たちによってそれを免れました。2006年に基隆市の文化資産に登録され、2020年に修復が終わってそれ以降一般公開されています。現在、基隆市が大規模な観光開発を進めている「大基隆歴史シーン再現計画」に入っており、海岸沿いの大沙湾エリアにおける歴史スポットの目玉のひとつです。
学びのポイント
どんな人が何のために建てたの?
海岸線は今とちがうの?
基隆の街の多くは日本統治時代に港湾として整備され、埋め立てられました。しかし、この大沙湾エリアにある歴史スポットを辿ることで、それ以前の海岸線を想像することができます。
基隆要塞司令官邸より北側にある基隆市長官邸(基隆關税務司官舍)から、要塞司令部校官眷舍、基隆要塞司令官邸前を通り過ぎ、清仏戦争で基隆を攻略しようとしたフランス軍の戦没者のための墓地、北白川宮能久親王滞在の記念碑などが点在するところがかつての海岸線沿いです。それぞれのスポットを歩きながら、基隆の変遷を想像することができます。
基隆要塞司令官邸より北側にある基隆市長官邸(基隆關税務司官舍)から、要塞司令部校官眷舍、基隆要塞司令官邸前を通り過ぎ、清仏戦争で基隆を攻略しようとしたフランス軍の戦没者のための墓地、北白川宮能久親王滞在の記念碑などが点在するところがかつての海岸線沿いです。それぞれのスポットを歩きながら、基隆の変遷を想像することができます。
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】日本統治以前の基隆の歴史について調べてみましょう。また基隆要塞司令部の歴史について調べましょう。二二八事件という大きな歴史事件の舞台ともなっています。
- 【現地体験学習】インターネットで中央研究院人文社会科学研究センターの「台湾百年歴史地図」の「基隆」の古い地図を見ながら、現地にどんな風景が広がっていたか想像してみましょう。
参考資料
「大基隆歴史シーン再現計画」については、林念慈「新旧が対話する 歴史ある港町——基隆」(『台湾光華雑誌』)でも紹介されています。日本統治時代の基隆港については、石坂莊作編『基隆港』(台湾日日新報社、1917年)が国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので参考にしてください。「たいわんほそ道~基隆、かつての砂浜をゆく:中正路、正義路から中正公園へ」は、実際に基隆の昔の海岸沿いを歩いたエッセーです。
- 所在地
- 基隆市中正区中正路230号