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國立國父紀念館

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国立国父紀念館

中華民国の「国父」孫文を顕彰する巨大建築

戦後長らく台湾を統治してきた中国国民党政権が、中華民国建国の父、すなわち「国父」として敬う孫文(1866-1925)の功績を顕彰するために造営した巨大建築です。孫文の生誕100周年を記念する事業として1963年頃から計画が始まり、72年に落成しました。設計を担当した王大閎は、西洋建築の追随でも、中国古代の宮殿の模倣でもない、革命的な新しい中国式建築の創造を目指したとされます。館内には高さ約6メートルもある孫文の銅像が鎮座しており、その前で行われる儀仗兵の交代儀式は観光客の人気を集めています。

学びのポイント

孫文の顕彰

孫文は19世紀末、当時の中国大陸の統治者であった満州族の清王朝を打倒し、民主的な共和国を建国する革命を志しました。その後、孫文は憲法を制定して民主的な国家を完成させるためには、一定期間は一つの政党による独裁を経なければならないという考えも打ち出します。中国国民党はその遺志を継いで、孫文の理想とした中華民国の建国を目指しました。孫文が1925年に亡くなると、中国各地で銅像や記念館が造られ、その功績を顕彰する動きが起こりました。中国国民党は、1930年に正式に孫文を「国父」の尊称で呼び始めます。なお、国民党と対立し、後に内戦を経て中華人民共和国を建国する中国共産党も、孫文を「革命の先駆者」として高く評価してきました。

孫文と台湾

孫文は、台湾の統治に直接関わったことはありません。しかし、第二次大戦後に台湾を統治下に収めた国民党は、台湾の人々に「中国人」としての自覚を持つことを求め、教育や文化事業を通じて孫文の功績を強調してきました。台湾と孫文はまったく無関係かというと、そうでもありません。国民党による統治が始まる以前、孫文は、生涯で3回台湾を訪れたとされています。その影響力の一例を紹介しましょう。日本の植民地統治下にあった1920年代の台湾において、台湾住民による自治を要求する運動をリードした蔣渭水という人物は、孫文の熱烈な崇拝者であったとされます。孫文の「民主的な政治を追求した」側面は、様々な考えの人々が共通して評価できるポイントになっていると言えます。孫文はアメリカ独立革命の歴史等に学びながら、中国に新しい国家を打ち立てることを目指しました。西洋の思想や制度を受け入れる一方、中国の伝統をどのように維持するかという問題は、政治面だけでなく様々な領域で、孫文の時代から今日に至るまで一貫して引き継がれています。国父紀念館の建築様式から、西洋化と中国の伝統の継承のどちらを優先するかという緊張関係を想像してみるのもよいかもしれません。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】孫文は19世紀末、なぜ清朝を倒し新しい国家を打ち立てなければならないと考えたのか調べましょう。
  • 【現地学習】孫文は中国語圏では孫中山という呼び名が一般的です。彼の名前にちなんだ学校、建物、道路などを探してみましょう。
  • 【事後学習】孫文を高く評価してきたのはどのような人たちなのか考えましょう。
参考資料
孫文の事績については深町英夫『孫文――近代化の岐路』(岩波新書、2016年)を手にとると良いでしょう。孫文に対する評価の問題についても同書から学ぶことができます。国父紀念館の建設が進められていた時期の台湾において、国民党が推進していた文化政策については、菅野敦志『台湾の国家と文化――「脱日本化」・「中国化」・「本土化」』(2011、勁草書房)が詳しいです。中国大陸と台湾は「同じ歴史を共有している」と考えたい人々にとって、孫文は重要なシンボルです。この問題については、孫文を直接論じたものではありませんが、川上桃子・呉介民編『中国ファクターの政治社会学――台湾への影響力の浸透』(白水社、2021年)が参考になります。

(家永真幸)

ウェブサイト
公式https://www.yatsen.gov.tw/

(中国語)


台北旅遊網(台北市政府観光伝播局)https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/742
所在地
台北市信義区仁愛路四段505号