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台北二二八紀念館

かつての放送局が伝え続ける人権の軌跡

1997年2月28日、二二八事件50周年を機に、台湾で最初の二二八紀念館が台北市政府により設立されました。当時の市長はのちに総統となった陳水扁氏です。記念館の建物は1931年に落成した台北放送局で、1945年末に「台湾広播電台」と改称されたものです。二二八事件発生後、放送局は情報を台湾全土に伝える役割を果たしましたが、情報機関から全島に向けて決起を扇動したという罪を着せられました。1949年末、中国広播公司の本部となり、1972年に本部が移転した後、市政府に返還されました。1997年、市政府による記念館の開設により、かつて放送局だったころの記憶が呼び起こされることになりました。

学びのポイント

台湾人の自治運動とは何か?

二二八事件前後、社会エリートが提出した改革要求は、日本統治期の自治運動の目標でもありました。1920-30年代、台湾知識人は文化啓蒙運動や自治運動、農民運動などを展開しましたが、戦時期に入ると、すべての改革要求が葬り去られました。戦後、知識人はそれまでの異民族による統治に代わる「祖国」の到来に大きな期待を持ち、民主化や社会改革の要求を提出しましたが、その回答は武力鎮圧と中国化教育でした。展示では、このようなシナリオで事件の真相が説明されています。

なぜこの建物を記念館に選定したのか?

この建物は日本統治期の台北放送局です。戦後、すべての放送局は政府に接収され、台湾広播電台と改称されました。事件発生後、台北住民は直ちに新公園内の放送局に押しかけ、全島へ台北の騒乱状況を放送せよと要求しました。また、政府高官と議員はほぼ毎日放送局に来て、全島へ知らせたい情報を放送しました。そのため、年月を経ても、ラジオ放送の記憶が依然として年長者に残っていたのです。放送局は歴史の現場の建物だったわけで、これが記念館に指定された主な理由です。また、台北駅と総統府に近く、交通が便利なことも理由の一つでした。

二二八和平紀念公園とは?

日本統治下の1908年、台北公園が開設され、北側に児玉・後藤記念館(現・国立台湾博物館本館)が建てられました。円山公園の後に落成したので、その後、台北新公園と改称され、戦後もそのまま「新公園」の愛称で市民に親しまれました。1996年、園内に二二八和平紀念碑を設置、公園も二二八和平紀念公園と改称し、翌年、台北二二八紀念館が開設されました。

何義麟提供

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】1987年の「二二八公義和平運動」とは何かを調べてみましょう。
  • 【現地体験学習】公園内の記念碑前にある「二二八紀念碑文」をよく読んでみましょう。
  • 【現地体験学習】二二八和平紀念公園の事件関連施設を見学し、公園内にある「放送亭」を探してみましょう。
参考資料
二二八事件については、何義麟『台湾現代史:二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』(平凡社、2014年)、記念館について、英語でも書かれている呉易蓁著、呉易叡訳『自由背包客:台湾民主景点小旅行』(玉山社、2013年)を読んでみましょう。

(何義麟)

ウェブサイト
公式 https://228memorialmuseum.gov.taipei/
所在地
台北市凱達格蘭大道3号