郭書瑜撮影
国家人権博物館提供
陳定南紀念園區
陳定南紀念園区
Mr. Cleanと呼ばれた清廉な政治家の精神を語り継ぐ
陳定南紀念園区は、宜蘭県長(県知事)、立法委員(国会議員)、法務部長(法相)等を歴任し、その清廉さからMr.Cleanと呼ばれた陳定南の旧宅を利用した博物館です。陳定南は1943年に宜蘭県に生まれ、1980年代までは経営者としてビジネスの世界に身を置いていましたが、1979年の美麗島事件、1980年の林義雄母子惨殺事件に衝撃を受け、政治の道に足を踏み入れました。林義雄は、国立台湾大学での陳定南の先輩に当たります。1981年から89年まで宜蘭県長を2期務め、立法委員にも3回当選しました(1990-2000年)。2000年の台湾初の政権交代後は、民進党政権の法務部長に任命されました。
学びのポイント
宜蘭県長として地域の発展に尽くす
38歳の若さで宜蘭県長となった陳定南は、環境保護と観光事業の発展を施政の主軸として、県の発展に力を尽くしました。現在宜蘭が誇る公共建設の多くは、陳定南が在任中に行った都市計画の一部です。今からは想像しにくいことですが、1980〜90年代の台湾社会では、贈収賄、手抜き工事などが横行していました。陳定南はそれを防ぎ、工事の質を担保するために、自ら建築現場を監督しました。また、環境問題にも積極的に取り組みました。最もよく知られているのは、宜蘭県議会が一旦可決した第六ナフサ分解プラント(六軽)の建設計画に反対し、この計画を断念させたことです。
権威体制に反する陳定南
美麗島事件をきっかけに政治の道に足を踏み入れた陳定南は、権威体制を公然と批判し、行動を起こしました。1988年、当時宜蘭県長であった陳定南は、県政府の「人二室」を廃止しました。「人二室」とは、白色テロの時代に国民党政権が全ての政府機関、学校、会社などに設置した部門で、人々の思想や言動を監視していました。さらに陳定南は宜蘭県長在任中映画上映前の国歌斉唱、公共の場所での蔣介石、蔣経国の肖像写真の掲示なども廃止しました。1989年6月に中国で天安門事件が起こると、当時の国民党政権は、民主化を弾圧する中国共産党政権を批判し、逆に台湾を「自由中国」としてアピールしようとしました。陳定南はそれに与せず、代わりに台湾で過去に起こった二二八事件の被害者、言論の自由を求めて犠牲となった鄭南榕、詹益樺らの追悼活動を行いました。
郭書瑜撮影
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】陳定南が政治の道に進むきっかけとなった美麗島事件、林義雄母子惨殺事件、およびその背景をなす白色テロについて調べてみましょう。
- 【事後学習】陳定南は38歳の若さで県長になりました。日本の各都道府県の知事の年齢について調べてみよう。
参考資料
陳定南紀念園区の概要は宜蘭博物館ファミリーのサイトで見られます。赤松美和子、若松大祐編著『台湾を知るための72章【第2版】』(明石書店、2022年)は、陳定南が政治活動を行うきっかけの美麗島事件と白色テロについて書かれています。第六ナフサプラントの建設をめぐる経緯については、寺尾忠能(2008)「第4章 台湾における地方政治と地方環境政策―雲林縣の事例を中心に―」『アジアにおける分権化と環境政策』(日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所)を参照してください。
- ウェブサイト
-
公式https://mr-clean.org.tw/
(中国語)
宜蘭旅遊網(宜蘭県政府)https://travel.yilan.tw/zh-tw/attraction/details/331(中国語)
- 所在地
- 宜蘭県三星郷大義村義洲路二段65巷52号