岡野〔葉〕翔太提供

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馬山觀測所

馬山観測所

中国の動向を監視していた、かつての中台の「最前線」

馬山観測所は金門島の最北端にあり、中国大陸までわずか2キロ程しか離れていません。現在は観光施設として一般に開放されていますが、金門島に軍政が敷かれていた1992年までは、対岸の動静を監視する軍事要塞として機能していました。ここの入り口には「還我山河」(我々の山河を返せ)と記された巨大なスローガンが掲げられたままです。金門島や台湾本島を統治する中華民国は、1949年まで中央政府を中国大陸に置いていました。その後、大陸は中国共産党が率いる中華人民共和国の施政下に入ったため、「還我山河」には、大陸を取り戻すという当時の中華民国側の願いが込められています。馬山観測所の脇には、かつて中国向けの政治宣伝を流していた放送所(馬山播音站)もあり、日本でも活躍した台湾出身の歌手テレサ・テン(1953-1995、台湾での芸名:鄧麗君)も同地を訪れ放送に参加しました。この施設からは、中台の緊張の歴史を感じることができます。

学びのポイント

中国の活動を監視していた観測所

馬山観測所は今でこそ観光施設となっていますが、これまでと変わらず台湾の軍隊が駐屯しています。観測所の入り口は、左右に迷彩柄の壁が立っている小道を抜けた先にあります。道を通るだけで、ここが砦のような仕組みになっていることがわかります。入り口の近くには「還我山河」と書かれたスローガンがあり、その脇に「馬山播音站」、そして観測所に通じる細長い坑道があります。坑道の幅は人が一人通れるほどしかなく、突き抜けた先に、中国を眺望するかつてのトーチカが現れます。設置された望遠鏡をのぞくと、対岸の高層ビル群が見えてきますが、かつてはここから中国の海上活動などを監視していました。

岡野〔葉〕翔太提供

中国に向けた放送を流していた馬山播音站

中台間が軍事的に対立していた時代、その戦いは物理的なものだけではありませんでした。自らの政府なり陣営がいかに素晴らしいかを、敵陣営やそこに暮らす人びとに伝えることも重要でした。馬山播音站は対岸と至近距離にあることから、1990年代初頭まで、中国に向け、政治宣伝を兼ねた様々な放送を行っていました。台湾で流行したポップミュージックなども、自らの繁栄を示す象徴として政治宣伝の道具として流され、対岸のアモイにまで聞こえていたといいます。このような政治宣伝を目的とした放送は台湾側だけでなく、中国側も行っており、金門とアモイを隔てた海には、かつて互いの政治宣伝が大音量で飛び交っていました。

アジアの歌姫テレサ・テンと金門島

観測所に通じる細長い坑道を通ると、窓ガラスがはめ込まれた小部屋が見えてきます。小部屋にはマイク、その横には軍服を着た歌手テレサ・テンのパネルが設置されています。1991年、テレサ・テンはこの地を訪れ、中国に向かって「我々と同様に大陸の同胞にも自由と民主主義が享受できる日が来ることを望みます」と呼びかけました。テレサは1953年に台湾で生まれました。両親は国民党とともに台湾に移り住んだ外省人です。1960年代後半に歌手デビューしたテレサは、台湾のみならず、香港、日本、東南アジアでも人気を博しました。その歌声は中国にも流れ、1980年代初め頃には、その影響力から中国では一時、放送禁止となりました。

岡野〔葉〕翔太提供

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】馬山観測所がつくられた背景について調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】日本でも活躍した台湾出身の歌手テレサ・テンは馬山播音站から中国に向かいメッセージを発信しました。中国ではテレサ・テンはどのような影響力を持ったのか、またどうして歌手のテレサ・テンが台湾の軍事施設から発信を行ったのか考えてみましょう。
  • 【現地体験学習】馬山観測所は実際に軍隊が駐屯しつつも、観光施設として開放されています。金門と軍事施設、そして観光の関係について探ってみましょう。
参考資料
テレサ・テンについては、平野久美子『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』(2015年、筑摩書房)が参考になります。また、プロカンダ放送など放送を通した戦いに関する専門的なものとして、貴志俊彦・川島真・孫安石編『戦争・ラジオ・記憶(増補改訂版)』(2015年、勉誠出版)が参考になります。

(岡野〔葉〕翔太)

ウェブサイト
交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003126&id=6247
金門観光旅遊(金門県政府観光処)https://kinmen.travel/ja/travel/attraction/153
所在地
金門県金沙鎮官澳東北角