山口ゆい氏提供

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吉安慶修院

吉安慶修院

吉野村に移住した日本人の苦楽を見つめてきたお寺

吉安慶修院は、1922年建立の宝形造の本堂のほか、四国八十八箇所の写し霊場、手水舎、不動明王像、お百度参りの基点になる百度石、光明真言百万遍の石碑などを配置した、とても日本的な空間です。その前身は、台湾東部の日本人移民村であった吉野村に、民間の真言宗の布教所として1917年に設立された吉野布教所でした。戦後、日本風の「吉野」という地名は吉安に変わり、吉野布教所は客家の呉添妹によって慶修院と改名されました。過去には不動明王が廃棄されたり、石仏が盗まれたりしたこともありましたが、現在では花蓮を代表する観光地です。庭園の奥にある展示コーナーの説明文は中国語ですが、写真を見て日本人移民の暮らしぶりを知ることができます。

写し霊場(下野寿子氏提供)

学びのポイント

台湾総督府の移民事業とは?

台湾で最初の官営移民村は、1910年に移住した61戸295人の村でした。徳島県出身者が多かったため、吉野川にちなんで吉野村と命名されました。村が設立された場所は、1908年に警察と先住民との衝突で多くの犠牲者を出した七脚川(チカソワン)事件があった所です。台湾総督府の移民事業の背景には、日本の人口増加が農村の貧困につながるので移民を検討するという考えがありました。また、台湾に長期滞在する日本人の数を増やすと植民地統治に有利になること、模範となる日本人を送り込んで台湾人の同化を促進すること、熱帯地域への進出準備として台湾で経験を積むことといったねらいがありました。

移民の苦労

吉野村では移民指導所、学校、医療所などの生活インフラを用意して日本人移民の定住を支援しました。しかし、慣れない気候、台風などの自然災害、マラリアやツツガムシ病などの疾病、先住民による襲撃への警戒、獣害、不十分な灌漑施設など、移民の苦労は絶えませんでした。1934年に水路拡張に着手してようやくサトウキビ、たばこ、コメ、野菜の収穫が増え、皇室に献上するほどおいしい吉野米もできるようになりました。移民村の模範であった吉野村には台湾総督や皇族が視察に来ました。安定した生活を築き始めた矢先、敗戦によって日本人移民は本土に引揚げました。台湾生まれ(湾生)の移民二世も故郷台湾を離れて日本へ向かいました。

戦後、吉野村はどうなった?

日本統治時代に台湾東部の開発が始まると、新竹などから客家が移住してきました。客家は客家語を母語とする漢民族で、日本人移民村や製糖工場の労働力不足を補いました。戦後、日本人が去ると、吉野村の空き家には客家など台湾人が入居しました。戦前から戦後への地域住民の民族構成の変化は、慶修院に近い吉野神社跡地の変遷にも現れています。1912年建立の神社は、皇室行事の神嘗祭、台湾の始政記念日、天皇誕生日にあたる天長節などの儀式が行われた場所です。戦後、神社は取り壊され、現在は客家文化を紹介する吉安好客芸術村になっています。日本統治時代の面影を伝えるものは、吉野神社鎮座と吉野拓地開村の記念碑のみになりました。

吉野神社鎮座紀念碑(下野寿子氏提供)

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】吉野村以外にどのような日本人移民村があったのか調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】客家はどのような特徴をもつ人々なのか調べてみましょう。
  • 【現地体験学習】台湾人は慶修院のどのようなところに日本らしさを感じるのでしょうか。慶修院で台湾人観光客に聞いてみましょう。
参考資料
吉安慶修院については、中華民国内政部の「台湾宗教百景」に日本語で掲載された「吉安慶修院」が写真付きでわかりやすいです。吉野村については、片倉佳史『古写真が語る台湾日本統治時代の50年1895-1945』(祥伝社、2015年)の「吉野・豊田・林田」の項に日本統治時代の写真が掲載されています。ホァン・ミンチェン監督の台湾映画『湾生回家』(2015年、日本語版DVDはマグザムが販売)には、吉野村で生まれ育った湾生が登場し、台湾人の同級生を訪ねたり戦前戦後の体験を語ったりする様子が収録されています。少し専門的になりますが、栗原純・鍾淑敏監修『台湾官営移住案内 三移民村 吉野村概況 官営移民村 大和村建設志』(ゆまに書房、2015年)は、移住の支度や心得、移民村の物価など、移民の生活状況が察せられる資料を収録しています。

(下野寿子)

ウェブサイト
公式http://www.yoshino793.com.tw/

(中国語)

所在地
花蓮県吉安郷吉安村中興路345-1号