下野寿子氏撮影

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花蓮觀光糖廠

花蓮観光糖廠

製糖工場の名物アイスを食べながら台湾糖業の盛衰を学ぶ

花蓮観光糖廠の前身は、日本統治時代の1921年に塩水港製糖株式会社が建設した大和工場です。1日1000トンのサトウキビを圧搾できる設備を備えていましたが、第二次世界大戦で爆撃を受けました。戦後、台湾にあった製糖工場は中華民国の台湾糖業公司に接収され、大和工場は修復後に花蓮糖廠として操業を再開しました。台湾の製糖業は1960年前後に最盛期を迎え設備も拡張されましたが、その後、砂糖の国際価格低迷とともに衰退しました。花蓮糖廠は2002年に生産を止め、工場や日本式木造家屋の宿舎群、糖業鉄道(シュガートレイン)の車両などを生かして観光事業に転換しました。木造宿舎群は日本建築の風情を生かしてリノベーションされ、宿泊施設になりました。

学びのポイント

なぜ新渡戸稲造の胸像が?

敷地内にある花糖文物館は台湾製糖業の歴史と花蓮糖廠の歩みを展示した資料館で、農学博士の新渡戸稲造の胸像が設置されています。第4代台湾総督の児玉源太郎に請われて台湾に来た新渡戸は、1901年に提出した「糖業改良意見書」の中で、大規模な生産設備を導入する新設工場には奨励金を出すことなど、製糖業の保護と発展について具体的な提言を行いました。「意見書」に基づいた台湾総督府の政策は大資本を選好したため、台湾の製糖業の担い手は台湾製糖、大日本製糖、明治製糖、塩水港製糖という内地の大企業4社にほぼ集約されました。

下野寿子氏提供

工場の名前の変遷

花蓮観光糖廠がある地域は、昔は「ファタアン(馬太鞍:北京語でマァータイアンと発音)」と呼ばれる、先住民アミ族の大きな集落でした。日本統治時代になると、ファタアンにも経済開発が及び、大和工場ができました。1937年、台湾総督府は工場名にちなんで地名を「上大和(かみやまと)」に変更しました。戦後、台湾が中華民国に返還(「光復」と呼ぶ)されると、上大和は旧名の発音に近い「台安(タイアン)」になりましたが、1947年に「光復」という名前に変わりました。頻繁な地名の変更は、その地を治める者の盛衰を示唆しているようで興味深いですね。

糖業鉄道とは何ですか?

糖業鉄道は製糖工場で運搬手段に用いられた私設鉄道です。大規模工場を稼働させるには大量のサトウキビが必要で、近隣のみならず遠くの畑からも調達しなければならなかったのですが、収穫後のサトウキビはかさばり、重量もあるため、当時の主要な運搬手段であった牛車では間に合いませんでした。そこで、各製糖会社は糖業鉄道を敷いて一度に大量のサトウキビを工場に搬入し、生産された砂糖を官営鉄道の最寄り駅まで搬出しました。工場内外を結ぶ糖業鉄道は1945年までに台湾全土で約3000キロメートルに達しました。しかし、1970年代末に道路網が整備されると鉄道輸送は廃れ、現在運行しているのは雲林県虎尾の糖業鉄道だけになりました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】新渡戸稲造や児玉源太郎はどのような人物であったのか、近代日本でどのような役割を果たしたのか調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】台湾の駅名や地名に残る日本名を探してみましょう。
  • 【現地体験学習】糖業鉄道のレール跡と施設内の説明文をたどって、収穫されたサトウキビが砂糖となって出荷されるまでの過程を追ってみましょう。また、購買部で売られている添加物を使っていないアイスクリームは花蓮観光糖廠の名物です。台湾らしい味を試してみましょう。
参考資料
台湾の交通部観光局花東縦谷国家風景区のウェブサイトが花蓮観光糖廠を日本語で紹介しています。大和工場については、片倉佳史『古写真が語る台湾日本統治時代の50年1895-1945』(祥伝社、2015年)の「上大和(馬太鞍)」の項を参照してください。日本統治時代の製糖業について専門的知識を深めたい方は、矢内原忠雄著、若林正丈編『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読 (岩波現代文庫―学術)』(岩波書店、2001年)や矢内原忠雄編『新渡戸博士 植民政策講義及論文集』(岩波書店、1943年)にチャレンジしてみてください。糖業鉄道については松田良孝氏のYouTube動画「台湾のシュガートレイン」(但し雲林県虎尾糖廠のもの)でイメージをつかむことができます。

(下野寿子)

ウェブサイト
公式https://www.taisugar.com.tw/resting/hualian/index.aspx

(中国語)

台湾観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003124&id=C100_176
所在地
花蓮県光復郷大進村糖廠街19号