下野寿子氏提供

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中国語名称

林田山林業文化園区

台湾林業を支えた人々の暮らしがみえる山村、モリサカ

1918年に日本企業が創業した林田山林場は、台湾の大規模な営林場としては唯一の民営で、森林列車、製炭工場、修理工場、宿舎などの産業設備や生活インフラを備えていました。所有者は何度も変わりましたが、最盛期の1960年代には500戸余り2000人以上が暮らすにぎわいでした。土地公廟や先住民のアミ族が信仰した長老教会(プロテスタント)や天主堂(カトリック)をみれば、小さな山村で多民族多宗教の共生が実現していたことがわかります。1972年の大火事の後、林務局に所有権が移って民営の歴史は終わり、1987年の森林伐採停止によって人口は流出しましたが、その後も「モリサカ(摩里沙卡)」の名で親しまれ、東台湾の林業の歴史を伝える文化園区になりました。

学びのポイント

林田山林業文化園区に残っている建築

修復やリノベーションを経た戦前戦後の建築が保存されています。日本統治時代の木造建築はヒノキ造りで、外壁を下見板張りで覆う工法を施し、床を地面から少し上げる工夫がされていたため、防湿防虫に優れていました。管理職の住まいであった場長館や林田山珈琲館は内部を見学できます。戦後に建設された中山堂は総ヒノキ造りの大講堂で、村の行事や上映会に使用されました。前方に舞台があり、観客席の長椅子もヒノキです。1960年代に導入した日本製の映写機も展示されています。機械修理の部品を保管していた倉庫では、この林場で使われた伐採道具や小型消防車が展示されています。往時の様子を再現した医務室や米店も興味深いでしょう。

下野寿子氏提供

切り出した原木の運び出し方

伐採した原木は索道で吊り下ろされ、木馬(きうま。木材を積載してレールの上を運搬する「そり」のこと)や森林鉄道で林田山林場の貯木場へ運ばれました。中山堂の手前には、木馬の模型と初期の森林鉄道のレールが残っています。文化園区内には1961年まで森林鉄道で使用された加藤製作所のガソリン機関車が展示されています。これは、木炭の不完全燃焼で発生する一酸化炭素ガスを動力としていたのでガス車と呼ばれたり、木材を載せて運ぶ時に大きく揺れた音からボンボン車と呼ばれたりしました。1983年に林道が整備されると大型トラックが主たる運搬手段になり、森林鉄道はその役割を終えました。

林田山林場に学校は?

日本統治時代の林田山林場には小学校がなかったため、従業員の子どもは片道3キロメートルの道を歩いて萬里橋公学校(現、長橋小学校の前身。公学校は台湾人の初等教育のための学校)へ通いました。1947年、林田山林場の中に森栄(モリサカ)代用小学が設置され、1年生から3年生までの下級生はここで学ぶことになりました。1958年には正式に森栄小学校となり、下級生から上級生まで同じ校舎で学ぶようになりました。最も生徒数が多かった1966年には12クラス447人が在籍していましたが、林田山林場の衰退とともに子どもの数は減少し、1988年に森栄小学校は40年の歴史の幕を閉じました。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】首里城(2019年に焼失)や明治神宮の鳥居をはじめ、台湾ヒノキは日本の神社仏閣などにも使われています。台湾ヒノキが使用されている建築にどのようなものがあるか調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】索道、木馬、森林鉄道は、日本の林業でも使われてきました。インターネットや文献で映像や写真を探し、それぞれどのように使われていたのか確認してみましょう。
  • 【現地体験学習】森栄小学校跡を訪れて学校があったころの子どもたちが学んだ環境を観察してみましょう。
参考資料
林田山林場のイメージをつかむには台北ナビの「花蓮に残る日本統治時代」や、【花蓮攻略シリーズ③】「台湾好行(路線バス) 縱谷花蓮線」で行く、『100年前の日本人の暮らしを探す『花蓮山側』の旅』」がおすすめです。さらに専門的知識を深めたい方は、荻野敏雄『朝鮮・満州・台湾林業発達史論』(財団法人林野弘済会、1965年)に民間の林業開発として林田山林場が紹介されていますので参照してください。

(下野寿子)

ウェブサイト
行政院農業委員会林務局https://www.forest.gov.tw/0000221

(中国語)

同上https://www.forest.gov.tw/EN/0000221

(英語)

台湾観光局https://www.erv-nsa.gov.tw/ja/attractions/detail/163
所在地
花蓮県鳳林鎮森栄里林森路99巷99号