北港の街のそばを流れているのが北港渓です。台湾に漢人系住民が移民し始めた17世紀ころから船が海より河口を遡って物資の荷揚げを行う「港」として機能していました。伝承によると東シナ海での交易に従事していた商人兼海賊の顔思斉がこの地に拠点をおき、入植をすすめたとされます(諸説あり)。北港渓の氾濫による河流の変化と土砂の堆積によって港としての機能は失われ、鹿港などに交易上の地位を譲っていきました。しかしその後も川筏を利用して内陸部と河口の港を結ぶなど北港は日本統治期に至るまで物資の集散地として機能を続けていました。
媽祖は中国大陸の東南部・福建省で広い民間の信仰を集める航海の神様です。北港朝天宮は17世紀に福建省から媽祖の神像が迎え入れて建立されたといい、台湾でも歴史の古い廟の一つです。道教・仏教・儒教が混淆した台湾の民俗信仰では、霊験あらたかな廟から神様の霊力を譲りうけ、自宅や地域の廟にその神様を新たにまつる習慣があります(分霊)。まつられた神様に対しては霊力を受け取った母廟へ定期的に戻る、または著名な廟を訪問すること(進香)が行われます。北港朝天宮は清朝統治期から霊験あらたかな廟として台湾各地の信徒たちの訪問をうけており、日本統治期にも台湾総督が奉納額を納めるなど保護をうけていました。北港では現在も台湾各地から神像(とくに媽祖の神像)を携えた参拝客の姿を多数みることができます。
中華民国交通部提供、葉英晉撮影
北港渓と北港の街をへだてる堤防からは、古い鉄道橋が残っているのを見ることができます。この鉄道橋は、嘉義から北港の街外れにある製糖場(北港糖廠)を経て北の街・虎尾の製糖場をつなげる糖業鉄道の遺構です。日本統治期、北港は台湾を南北につなぐ主要線路のルートから外れてしまい、商業拠点の地位は低下していきました。しかし清朝統治の末期ごろから台湾で盛んになった製糖業へ台湾総督府が着目したことから、北港は製糖業の拠点の1つとして位置づけられ、小型鉄道(軽便鉄道)によって沿岸部のサトウキビ生産地間のネットワークに組み込まれていました。