黒羽夏彦撮影
北港朝天宮
北港朝天宮
伝統ある廟を中心に発展した街並みから台湾の歴史を学ぼう!
北港は古くは18世紀から港町として発展をとげ、日本統治期から現在に至るまで航海の神様・媽祖を祀る廟の朝天宮を中心に発展してきた古い街です。植民地時代に区画整理がなされ、朝天宮へ向かう参道の中山路には各種のお土産屋や植民地時代から戦後にかけ営業した旧映画館(振興戯院)が立ち並ぶ観光街を形成しています。中心部から北へすこし歩 いた北港文化中心では毎年陰暦3月に台湾各地からの参拝客が集う媽祖誕の民俗や歴史について学ぶことができるほか、東の堤防沿いを歩けば、1980年代まで営業を続けていた鉄道橋の遺構(復興鉄橋)や北港水道塔(北港水道頭)のような近代化遺産を見て回れます。
学びのポイント
内陸なのになぜ「港」なのでしょうか?
北港の街のそばを流れているのが北港渓です。台湾に漢人系住民が移民し始めた17世紀ころから船が海より河口を遡って物資の荷揚げを行う「港」として機能していました。伝承によると東シナ海での交易に従事していた商人兼海賊の顔思斉がこの地に拠点をおき、入植をすすめたとされます(諸説あり)。北港渓の氾濫による河流の変化と土砂の堆積によって港としての機能は失われ、鹿港などに交易上の地位を譲っていきました。しかしその後も川筏を利用して内陸部と河口の港を結ぶなど北港は日本統治期に至るまで物資の集散地として機能を続けていました。
台湾各地から人々が北港の廟へ集まるのは?
媽祖は中国大陸の東南部・福建省で広い民間の信仰を集める航海の神様です。北港朝天宮は17世紀に福建省から媽祖の神像が迎え入れて建立されたといい、台湾でも歴史の古い廟の一つです。道教・仏教・儒教が混淆した台湾の民俗信仰では、霊験あらたかな廟から神様の霊力を譲りうけ、自宅や地域の廟にその神様を新たにまつる習慣があります(分霊)。まつられた神様に対しては霊力を受け取った母廟へ定期的に戻る、または著名な廟を訪問すること(進香)が行われます。北港朝天宮は清朝統治期から霊験あらたかな廟として台湾各地の信徒たちの訪問をうけており、日本統治期にも台湾総督が奉納額を納めるなど保護をうけていました。北港では現在も台湾各地から神像(とくに媽祖の神像)を携えた参拝客の姿を多数みることができます。
中華民国交通部提供、葉英晉撮影
北港に残る「鉄道」はどこへ向かっているのでしょうか?
北港渓と北港の街をへだてる堤防からは、古い鉄道橋が残っているのを見ることができます。この鉄道橋は、嘉義から北港の街外れにある製糖場(北港糖廠)を経て北の街・虎尾の製糖場をつなげる糖業鉄道の遺構です。日本統治期、北港は台湾を南北につなぐ主要線路のルートから外れてしまい、商業拠点の地位は低下していきました。しかし清朝統治の末期ごろから台湾で盛んになった製糖業へ台湾総督府が着目したことから、北港は製糖業の拠点の1つとして位置づけられ、小型鉄道(軽便鉄道)によって沿岸部のサトウキビ生産地間のネットワークに組み込まれていました。
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】進香(媽祖巡礼)は、媽祖像を大轎(みこし)に乗せて祖廟などを訪問する行事で、北港朝天宮はその重要な訪問地の一つです。大轎の前後には一キロにも及ぶ人々が連なり、不眠不休で100キロ以上を媽祖と共に歩き、沿道の人々は両手を合わせ平身低頭して大轎の下を潜り抜け、媽祖の霊力にあやかります。YouTubeで「進香」を検索し、進香の様子を観察してみましょう。
- 【事前学習】【事後学習】台湾の製糖業と近代日本の食生活とのかかわりについて調べてみましょう。
参考資料
台湾各地の廟に代表される民俗信仰の世界については、若林正丈編『もっと知りたい台湾 第2版』(弘文堂、1998年)が日本語で読むことのできる概説書として最良のものです。少々古いものの郭中端・堀込憲二『中国人の街づくり』(相模書房、1980年)は廟と市街の形成について触れており、なおかつ北港の中山路に残るようなモダン建築の街並みを見るにあたっても参考となるでしょう。四方田犬彦『台湾の歓び』(岩波書店、2015年)には、筆者の進香参加体験記が記されています。
- ウェブサイト
- 公式http://www.matsu.org.tw/Index2.aspx 交通部観光局https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003016&id=2249 雲林文化旅遊網(雲林県政府)https://jp.tour.yunlin.gov.tw/jp/index.asp?au_id=97
- 所在地
- 雲林県北港鎮中山路178号