1895年からの日本の植民地統治において、台湾総督府は、鉄道、道路、港湾といった近代的なインフラの整備を次々に進めていきました。水力発電事業もその一つであり、日月潭のダム建設は、台湾の商工業の発展に必要な電力を確保する目的で1919年に着工されました。この工事は、近隣の河川から日月潭に水を引き込み、大規模な貯水池として利用しようとするものでした。これによって日月潭の水面は上昇し、湖の面積は4倍にまで広がったとされます。現在の日月潭の姿は、自然が作り出した景観であると同時に、植民地統治の過程で人為的に作られた景観でもあるのです。
中華民国交通部観光局提供
ダム建設や観光化は、湖周辺に暮らしてきた人々にとってはどのような意味をもつのでしょうか。先住民族サオは、人口800人強と少数ながらも、独自の信仰やアイデンティティを維持しながら日月潭の湖畔に暮らしてきた人々です。水力発電のためのダム建設によって日月潭の水面が上昇すると、サオが暮らしてきた湖畔の一部は水没することになりました。これらの地域の人々は、総督府によって強制的に移住させられ、周辺に住むサオの集落をまとめた1つの集住地が形成されました。現在の伊達邵がそれに当たります。ダム建設によって姿を変えた日月潭は、景勝地として知られていきます。これは日月潭の観光化
を促し、サオの人々の暮らしが漢人に同化していく大きな要因になりました。