霧社事件餘生紀念館 霧社事件餘生紀念館

セデック(ひと)として生きる ―戦いをめぐる記憶と希求

赤松美和子撮影

霧社事件とは、台湾の先住民族と植民者の間で戦われた戦いの一つです。1930年10月に中央山間部の霧社一帯でセデック約300人が決起し、駐在所や運動会に参集した日本人を標的として襲撃、これに対して台湾総督府は苛烈な鎮圧・報復戦を展開します。この戦いを通じて死者は1000人以上にのぼり、蜂起した6集落の人口は4分の1以下に激減しました。生き延びたセデック約300人は、1931年5月に川中島と名付けられた山麓地への移住を強いられ、厳しい監視と慣れない環境のなかで生活を始めます。餘生紀念館の「餘生」とは、生き残りという意味です。館内の展示だけでなく、川と山に囲まれた小さな集落そのものに、セデック(ひと)として生きようとする人々の歴史が刻みこまれています。

学びのポイント

餘生記念館はどのように誕生?

川中島(清流、Gluban)の人々にとって、霧社蜂起とは長らく、恐怖と苦痛に満ちた、忘れ難くも触れ難い記憶でした。中華民国への統治権の移行後、かつての「川中島祠」の跡地に「霧社事件餘生紀念碑」が建てられ、住民によるメモリアルの儀式が5月6日ごとに営まれながらも、蜂起について語られることは断片的でした。1999年の921大地震で碑が倒壊、その復興事業の一環として記念碑の再建と記念館の設置が実現し、2011年公開の映画『セデック・バレ』が施設活性化の追い風となります。現在、餘生紀念館に隣接する碑の脇には神社の奉燈を模したものがあります。これらも、消し得ない歴史記憶を次世代へ継承するモニュメントの一つです。

赤松美和子撮影

何に対する抗い?

霧社事件は「抗日」として説明されがちですが、蜂起に踏み切った人々の希求や生き残った人々の経験を理解するには必ずしも十分とはいえません。当時蜂起に加わらなかった人々の決断も含めて、長期的、立体的に事件の前と後を捉えていくことが大切です。総督府の鎮圧戦に近隣の先住民が動員されたことから、敵と味方に分断され戦わされた人々の経験は、後の世代に複雑な影を落としています。政治的な非難と称揚の的になってきたことも、生き残った人々の傷を深くしています。先人たちの挑んだ「抗」は今なお切実な課題だと考える人も少なくありません。

霧社にも紀念公園?

清流部落から東へ山を隔てた霧社台地の一画に、「霧社事件紀念公園」が設けられています。「碧血英風」と刻した門や「烈士」を称える碑など、「中華」の色彩濃厚なモニュメントが目を引きます。投降後に日本の警察に殺害されたとおぼしき人々や蜂起のリーダーとされるモーナ・ルダオの遺骨が、遺族の暮らす清流ではなく、この公園内に納められています。

さらに学びを深めよう

  1. 【事前学習】【事後学習】地図で霧社台地にある莫那魯道紀念公園(霧社事件紀念公園)から清流部落にある餘生紀念館までのルートを調べてみましょう。また、二つの場所の標高や平均気温の差、市街(埔里や台中など)との位置関係を調べて、霧社と清流との生活環境の違いを考えてみましょう。
  2. 【現地体験学習】記念館の近くには、世代を越えて継承されてきた生活の知恵や技術を見学、体験できる工房があります。苧麻(ちょま)という植物から布を織りあげる工程、新しいデザイン、や素材を取り入れた作品など、どのような工夫があるのか、身近に接して探ってみましょう。
  3. 事前学習】【事後学習 「セデック」という語には「人」という意味があります。台湾の先住民族の呼称がどのような歴史をたどってきたのか、日本や世界各地の諸民族の呼称とどのような類似点、相違点があるのか、調べてみましょう。

参考資料

霧社事件に関する書籍等は膨大にあります。事件の概要を知るには、邱若龍による漫画『霧社事件』(現代書館、1993年)がアプローチしやすいでしょう。蜂起に至る脈絡や事件に関わる人々の複雑な生きざまを理解するには、鄧相楊の『植民地台湾の原住民と日本人警察官の家族たち』や『抗日霧社事件をめぐる人々』(日本機関紙出版センター、2000・2001年)などが手がかりとなります。魏徳聖監督の映画『セデック・バレ』(2011年)が戦う男たちに光をあてた物語であるのに対して、湯湘竹監督の『餘生』(2015年)は生き残った女や子ども、その後代たちの細い声に耳を傾けたドキュメンタリー映画です。

(北村嘉恵)

ウェブサイト
なし
所在地
南投県仁愛郷原名路157号互助村