蔡蕙頻撮影
鹿港民俗文物館
鹿港民俗文物館
名家の屋敷に凝縮された台湾史の魅力
鹿港民俗文物館は、もともと台湾五大家族‧辜家の邸宅でした。辜家の代表的な人物である辜顕栄は成功を収めた後、1919年に、故郷の鹿港にある清朝時代の建築物「古風楼」のそばに西洋式建築の「大和商行」を建てました。当時、清朝の建築と西洋建築を融合した辜家の邸宅を、日本の皇族や政府の役人もよく訪れました。1973年、辜顕栄の息子である辜振甫は、ここを「鹿港民俗文物館」としました。「鹿港」という名前がついていますが、地元の民俗文物に限らず、台湾全土に関わる収蔵品があり、台湾の歴史、建築、民俗など多様な台湾の文物が展示されています。
学びのポイント
鹿港はどのようなところ?
「一府(台湾府城、即ち台南)、二鹿(鹿港)、三艋舺(今の台北市萬華)」という言葉があります。清朝統治時代以来、鹿港は良港のある商業地として発展しており、かつては台湾で二番目の港市でした。その歴史は長く、古い町並や書院、「廟」(お寺)など台湾の伝統的な建築が数多く残っています。
辜顕栄とは誰か?
1895年、日清戦争の結果、台湾が日本に割譲され、台北の治安は急速に悪化しました。有力者らは日本軍に対し、治安を回復することを求めました。当時、日本軍を出迎えたのは辜顕栄でした。その後、辜氏は日本植民当局と親しくし、協力的だったので、政府から塩、阿片などの専売特許を受け、巨富を築きました。台湾総督府評議員などの政治職にも任じられて、日本統治時代に大きな影響力を持ちました。戦後も、息子の辜振甫が台湾大手金融機関の「中国信託」を創設して経営するなど、辜家は影響力を持ち続けました。
鹿港民俗文物館の重要性は?
鹿港民俗文物館は、所蔵品が、台湾民俗研究の観点からの価値が高いことはもちろんですが、私営の博物館や文物館がほとんどなかった1970年代の台湾において、私営の博物館として1973年に開館したという意味においても大変珍しい存在で、台湾の私営や博物館史や文物館史においても重要な位置を占めています。
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】辜顕栄の評価を調べましょう。
- 【現地体験学習】展示品のなかで、最も印象的なのはどれですか。それはなぜですか。
- 【現地体験学習】鹿港民俗文物館とその周辺の建築の外観はどう違いますか。観察してみましょう。
参考資料
辜顕栄については、辜顕栄翁伝記編纂会編『辜顕栄翁伝』(辜顕栄翁伝記編纂会、1939年)。辜家の発展や鹿港民俗文物館については、根橋玲子、藤原弘「鹿港民俗文物館・中国信託商業銀行「文薈館」を訪ねて : 辜振甫氏・辜濓松氏を偲ぶ(前編)」『交流:台湾情報誌』894号(交流協会総務部、2015年)、根橋玲子、藤原弘「鹿港民俗文物館・中国信託商業銀行「文薈館」を訪ねて : 辜振甫氏・辜濓松氏を偲ぶ(後編)」『交流:台湾情報誌』895号(交流協会総務部、2015年)は辜顕栄、鹿港民俗文物館及び中國信託商業銀行・文薈館をより詳しく紹介します。また、「鹿港民俗文物館」のウェブサイトには日本語版があり、当館の由来や建築の特徴が紹介されています。