突然の雨や日差しを遮るアーケード(福田栞氏提供)
公会堂外観(福田栞氏提供)
彰化藝術館
彰化芸術館(旧彰化公会堂)
彰化地域における文化の発信地を担ったモダニズム建築
彰化芸術館の前身である彰化公会堂は、日本統治時代の1933年に竣工しました。当時ここは映画上映や演劇鑑賞のほか、美術や文学の展覧会が開かれるなど、主に文化の発信地として使用されていました。彰化県内には、ほかにも鹿港や二水にも同様の機能をもつ公会堂が建てられており、いずれも都市文化の香りを感じられる施設でした。戦後、公会堂は中華民国政府に接収されて中山堂と改名され、彰化県政府の管轄となります。そして、彰化県議会ビルが完成する1962年まで県議会などとして使用されました。1960年代後半からは、公演や個展、商業イベントの開催などの用途で一般市民も利用できるようになり、市民公会堂としての役割も担うようになります。1999年に発生した921大地震で公会堂は甚大な被害を受けたものの、修復作業が行われ、2002年には彰化県歴史建築に登録されました。修復作業が完了した2005年7月に彰化芸術館としてオープンし、以来、彰化市民の文化活動の中心としての機能を果たし続けています。
学びのポイント
彰化芸術館に用いられている建築様式は
1930年代を代表する日本のモダニズム建築の様式に基づいています。日本では大正時代に鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝わり、幾何学的な形状を多用し洗練された雰囲気をもつシンプルなデザインが流行します。彰化芸術館もまた、鉄筋コンクリート造で、装飾の少ないスタイリッシュな造りが特徴的です。特に正面玄関にみられる、水平に伸び中心部に三角形の突起がある帯状の装飾などは、この時代のデザインを象徴しています。玄関部分には3つのアーチ型の門に囲われた構体がありますが、これは当時自動車に客を乗せる際に利用する車寄せでした。建物の側面には突然の雨や強い日差しを遮るためのアーケードがつけられ、台湾の気候に合わせたユニークな設計になっているところも興味深い点です。
旧彰化公会堂で美術展を開いたことのある作家は
旧彰化公会堂で美術展を開いたことのある作家に、林錦鴻(1905〜1985)がいます。林錦鴻は1920年代末から30年代にかけて日本の著名な画家である田辺至(1886〜1968)や岡田三郎助(1869〜1939)のもとで油絵の技法を学びました。彰化の出身で、1926年に台北師範学校を卒業した後、彰化県の公学校に3年勤めますが、絵画制作への情熱を捨てきれず、専門的な技術の習得のために1929年、東京の川端画学校に通い始めます。同年に台湾美術展覧会(当時の台湾で最も権威のあった官設美術展覧会)に出品した「少女」は、少女の表情に浮かぶ繊細な機微を巧みに捉えており、女性像を得意とした岡田三郎助から学んだ成果が発揮されたものと考えられます。この作品は、当時の台湾総督である石塚英蔵に買い上げられました。1931年に帰台した際には、彰化公会堂で自身の洋画作品を50点ほど出品して個展を開催し、台湾美術界の注目を集めました。こうした活躍のほか、『台湾新民報』の美術記者として、美術関連の活動に関する取材や作家へのインタビューなどを担当しました。林は洋画家であると同時に文化評論家であり、日本統治時代に美術評論を書くことのできた数少ない台湾人のひとりです。
さらに学びを深めよう
- 【事前・事後学習】彰化出身の文学者や美術家について調べてみましょう。
- 【【現地学習】彰化にほかにも日本統治時代に建てられた建築物がないか探してみましょう。
参考資料
赤松美和子・若松大祐 編著『台湾を知るための72章【第2版】』(明石書店、2022年)の「Ⅳ 文化」の各章で、公会堂を使用するような台湾の文化活動の概要を知ることができます。小説、柯宗明(栖来ひかり訳)『陳澄波を探して 消された台湾画家の謎』(岩波書店、2024年)は、日本統治時代の青年台湾人美術家たちが画学生から美術家になるまでの足跡のほか、さまざまな経験を主な題材としています。現代の私たちからすると、日本統治時代に生きた台湾人美術家については想像しにくい部分もありますが、この小説は当時の美術家たちが抱えた苦悩を臨場感を持って味わうことができます。台湾にある日本統治時代の建造物については、渡邉義孝『台湾日式建築紀行』(KADOKAWA、2022年)が参考になります。
- ウェブサイト
- 彰化県文化局
https://www.bocach.gov.tw/cl.aspx?n=1392
(中国語)
- 所在地
-
彰化県彰化市中山路二段542号