聚芳館(松田良孝氏提供)
聚芳館
聚芳館
台湾で進退きわまった「琉球難民」の姿を垣間見る
アジア太平洋戦争末期、沖縄から台湾に1万人以上が疎開しました。疎開先は台湾内で40カ所近くが確認されていますが、当時の面影が感じられる場所は稀です。そんななか、南投市の中山公園にある聚芳館は、沖縄出身の疎開者の居住施設が現存する貴重なケースです。聚芳館の前身は1922年に整備された南投郡物産陳列館という施設で、現在は公園の管理施設となっています。沖縄からの疎開者の多くは、空襲にあい、病気や空腹に苦しみました。中には約8.5%の人が死亡したグループもあります。戦後は、引き揚げを待つ疎開者は「琉球難民」と呼ばれました。沖縄から台湾への疎開は、台湾における戦争の一断面を示しています。
学びのポイント
疎開者の日常生活は?
疎開に行く前は、生活費や食材の支給、働き口の紹介が約束されていましたが、戦況の悪化によって行き詰まっていきました。衣類を食べ物と物々交換した人や、落ちている食べ物を探して食べた人もいます。当時14歳だった女性は、疎開地で母親が死亡したため、一緒に台湾へ来ていた妹の世話をすることになり、耳で聞き覚えた片言の台湾語を使って現地の市場で買い物をしたそうです。戦後は、公的な機関の支援は途絶え、飢えや疲労に耐えながら、帰郷の船を探しました。
どこで暮らしていたのでしょうか?
疎開者は、台湾に到着すると、学校や集会施設、工場の寮など指定の場所に入りました。鉄道の沿線や市街地では空襲の標的となって死傷者が出ることもありました。沖縄では戦火を体験せず、疎開先の台湾に来て初めて空襲に遭ったという人も珍しくありません。焼夷弾で子どもが焼け死んだという目撃証言もあります。戦況の悪化により 、山間部にある別の場所へ移ることもありました。
台湾への疎開はどのように進められたのでしょうか?
戦況の悪化とともに、沖縄では台湾で暮らしている家族を頼って個人的に疎開する人が出始めました。1944年7月の臨時閣議で沖縄の市民の一部を台湾へ疎開させる方針が決定されると、沖縄県や市町村を挙げての動きに移行していきました。ただ、疎開する場所をだれがどのような方針で選んだのかなど政策的な意図ははっきりとは分かっていません。日本統治期の資料を集める台湾のコレクターが、廃棄寸前だった当時の資料を偶然手に入れ、研究者の調査によってそれが台湾疎開に関する文書だとわかったケースもあります。疎開の実態は、体験者の記録や聞き取りによって明らかにされてきましたが、さらに幅広くさまざまな資料に目を通す必要があります。
南投市内の商業空間(松田良孝氏提供)
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】あなたの家族や親戚、知り合いのなかに疎開を体験した人はいますか。どこへ疎開し、どのような体験をしていましたか。
- 【事前学習】【事後学習】沖縄と台湾の関係について調べてみましょう。
参考資料
沖縄から台湾への疎開を取り上げた書籍としては、大田静男『八重山の戦争』(南山舎、1996年8月)、松田良孝『台湾疎開』(南山舎、2010年6月)があります。戦後の引き揚げで、疎開者ら台湾から沖縄の宮古地方などへ戻ろうとする人たちが遭難した「栄丸」については、松田良孝「台湾引揚船「栄丸」の悲劇から75年〜沖縄と台湾で始まる戦争体験の共有」『ニッポンドットコム』があります。台湾疎開の体験者の記録を収録したものとしては、石垣市市史編集室編「市民の戦時・戦後体験記録 第二集」(石垣市役所、1984年3月)、石垣市市史編集室編「市民の戦時・戦後体験記録 第一集」(石垣市役所、1983年1月)、沖縄県教育委員会編集・発行「沖縄縣史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録2」(1974年3月、国書刊行会が1989年10月に再刊)があります。
- ウェブサイト
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南投県政府文化局ウェブサイトhttps://www.nthcc.gov.tw/A8_2/content/700
(中国語)
- 所在地
- 南投県南投市龍泉里民生街2号