復興鉄橋(前野清太朗提供)

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北港堤防

北港堤防

川の眺めから台湾の地方の町の歴史を知る

嘉義側から北港の町に入る際に、橋から周囲を見渡してみると、町の三方が堤防に囲まれ、一段低い場所にあるのがわかります。町のすぐそばを流れる北港渓は度重なる氾濫によって北港の町に被害を与え続けてきました。現在の町は、1950〜1970年代に建設された北港堤防によって水害から守られ、堤防の上は町民が散歩する遊歩道となっています。現在嘉義県側から北港に入るには、西南にかかる車道橋か歩道橋をわたりますが、かつては東側に鉄道を使って入るルートがありました。かつての鉄道ルート跡は展望スポット「女児橋」と、旧鉄道の盛り土を利用して北港の町を高台で横切れる「天空之橋」として2010年代に整備され人気を集めています。

学びのポイント

北港渓にかかる鉄道橋はどこへ向かっているの?

北港堤防にかかる展望スポット「女児橋」からは北港渓をはさんで雲林県側と嘉義県側をつなぐ古い鉄道橋が見られます。この鉄道橋は、嘉義市街と北港の街外れにある製糖場(北港糖廠)をつないでいた台湾糖業鉄道の遺構です。日本統治 時代に北港は台湾を南北に走る主要線路のルートから外れてしまい、商業拠点としての地位は低下していきました。しかし清朝統治の末期ごろから台湾で盛んになった製糖業に台湾総督府が着目したことから、北港は製糖業の拠点の1つとして位置づけられ、小型鉄道(軽便鉄道)によって沿岸部のサトウキビ生産地間のネットワークに組み込まれました。この鉄道は、台湾の製糖業が衰退した後の1980年代頭まで運行しており、線路陸橋が北港の町中を通っていました。

町のすぐそばに大きな堤防ができた経緯は?

北港渓は雲林県の南境を流れる河川です。北港の町は河川に面した立地を活かした物資の集散地として発展してきましたが、河川の氾濫による被害をたびたび被ってきました。かつての北港渓は現在雲林県との北境を流れる濁水渓と氾濫のたびに合流して周辺の村落に大きな水害をもたらしていました。日本統治時代中期の濁水渓治水工事によって濁水渓が現在のルートに定着し、北港渓と濁水渓はかつてのように合流することはなくなりました。しかし、北港渓の治水工事は1930年代に計画されたものの第二次大戦の影響で中断され、1959年の通称「八七水災」ほか水害を引き起こしました。その後、1973年にすべての堤防が完成し、北港渓の氾濫による北港の町への被害は収まっています。

北港渓を挟んだ「港」町の関係は?

北港渓を挟んだ北の雲林県側には 北港 、嘉義県側には新港と南港と、「港」がつく地名が3か所あります。かつてこの地は「笨港」(ほんこう)と呼ばれ、中国・台湾間の物資の荷揚げや積み込みを行う港でした。ところが18世紀半ばに北港渓が大氾濫を起こし、川の流れが変化して元々の町並みを川の南北に分断してしまいました。北港渓の北側は笨北港(現在の北港)、南側は笨南港(現在の南港)と新南港(現在の新港)となって現在に至ります。町が南北に分断された歴史的経緯を反映し、北港朝天宮と新港奉天宮の二か所の媽祖廟の間ではいずれがより古い起源をもつかについて議論が交わされてきた経緯があります。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】台湾で一番長い川である濁水渓について 調べてみましょう。
  • 【事前学習】製糖業・製茶業など日本統治 時代に行われた各種産業開発について調べてみましょう。
  • 【事前学習】日本の軽便鉄道についても調べてみましょう。
参考資料
北港ほか台湾の廟の町の形成史については、「中国人の」とありますが、郭中端・堀込憲二 『中国人の街づくり』(相模書房、1980年)に、それぞれ詳細な説明があります。日本統治時代の台湾の鉄道網については片倉佳史 『台湾鉄路と日本人――線路に刻まれた日本の軌跡』(交通新聞社、2010年)、また辛永勝・楊朝景『台湾レトロ建築案内』(エクスナレッジ、2018年)携えながら回ると、橋から見える古い建物の建築デザインを楽しく見て回ることができるでしょう。

(前野清太朗)

所在地
雲林県北港鎮河堤道路