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逢甲夜市

逢甲夜市

台湾の新たなブームの発信地。台湾人が最も愛する夜市

逢甲夜市は、台中市西屯区の文華路、逢甲路、福星路を中心として逢甲大学付近に広がる無数の店舗群を指します。毎日夕方4時から夜の2時まで営業され、逢甲大学による調査によれば平日には毎晩3万人、週末には10万人を超える人が訪れる台湾最大級の夜市の一つです。逢甲大学に隣接する立地から利用客は20代の若者が多く、その影響を受けて夜市では食べ物だけでなく、服飾品や雑貨、韓流や日本風の商品などが販売されており、台湾の若者の流行を敏感に摑んだ商品が集められています。逢甲夜市は『遠見雑誌』が行った「全台夜市遊逛」大調査という企画で、25.6%の得票率で台湾のもっとも好きな夜市(「台湾最喜愛的夜市」)に選ばれ、また現在も台中市観光局の「台中10大観光スポット」に含まれており、現地の人々から変わらぬ高い人気を誇っています。

学びのポイント

大学と共に成長した夜市

台湾の夜市は、廟あるいは物流の中心などの人通りを集める公共空間に隣接することで発達した事例が多いですが、これらに並ぶ発達の要因として大学の存在があります。1963年に逢甲大学の前身である逢甲工商学院が台中市の北屯区から現在の場所に移った結果、2万人あまりの学生がこの付近を歩くようになり、学生向けの飲食店や雑貨店が文華路に出店するようになりました。大学に通う若者を主な顧客としたことで、逢甲夜市では他で見られない新しい商品が次々と生み出されました。例えば日本のたこ焼きを台湾風にカスタマイズした日船章魚小丸子という店舗はこの夜市の屋台から始まり、現在では台湾全土とアジア各国に支店を持つチェーン店へと成長しました。これ以外にも「大腸包小腸」「木瓜牛奶」「地瓜球」など、逢甲夜市から台湾全土に波及していった(と言われる)商品が数多くあります。

地産地消:ショーケースとしての夜市

1970年代の台湾における夜市の急成長には、実は外的な要因が関わっています。1970年代初頭の国際情勢の変化と1973年、1979年のオイルショックに代表される世界的な不況のために、それまでの輸出用商品の行き場がなくなり、台湾国内で余剰在庫となりました。こうした余剰商品は、もともとの価格より安い値段で買い叩かれ、格安商品として夜市に出回りました。これを契機に、この時代の夜市では台湾で生産された商品を台湾国内で消費するという循環が生まれ、まだ無名の台湾人製作者たちの商品が流通する場所として、新製品に対する消費者の反応を見る場所、つまりアンテナショップのような役割を果たすようになりました。現在は国際情勢のさらなる変化によって、夜市で台湾産の物品を目にする機会は減りましたが、夜市を訪れた際にはその商品がどこで作られたものかを気にかけてみてはいかがでしょうか。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】1970年代に台湾夜市が発展した理由の一つに国際情勢の変化があります。1945年以降、台湾を取り巻く国際情勢がどのように変化したのか調べてみましょう。
  • 【現地学習・事後学習】逢甲夜市では廉価で個性的な商品がたくさん売られています。気に入った物を買い、後でその商品がどこで作られたものなのか確認してみましょう。
  • 【現地学習】逢甲夜市の発展は逢甲大学と切っても切れないものがあります。大学のキャンパスを見学してなぜこの場所で夜市が発達したのか考えてみましょう。
参考資料
夜市についての専門的に知りたい方は、藤岡達磨「想像の共同体の現実化の場所としての夜市 : 社会的余暇活動による経験の共有に注目して」 (『社会学雑誌』第33号、2017年)を読んでみましょう。

(藤岡達磨)

ウェブサイト
公式 http://fcyes.ehosting.com.tw/index.html

(中国語・英語・日本語)

所在地
中市西屯區文華路、逢甲路、福星路、慶和街周辺