呂美親提供

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賴和紀念館

頼和紀念館

台湾新文学運動の重要な発祥地

「台湾新文学の父」といわれる頼和は、1894年に日本統治下の台湾中部・彰化庁線東堡彰化街市仔尾(Tshī-á-bué)に生まれました。本名は頼河で、字は癸河。また、懶雲、逸民、甫三、安都生、灰、走街先、浪、孔乙己などの筆名があります。1914年4月に台湾総督府医学校を卒業、1918年にアモイ鼓浪嶼の博愛医院に赴任しました。アモイ滞在時に、中国の白話文運動の社会への影響に深い感銘を受け、台湾に帰った後、台湾の新文学運動の代表的な担い手として活動するようになりました。
戦前は日本統治下、戦後は国民党政権下で 、台湾文学の発展は長期にわたって抑圧されました。1970年代の郷土文学論戦や1980年代の本土化運動、また1990年代の民主化運動を経て、ようやく1995年に、頼和の遺族が頼和医院の跡地に建てた「和園」ビルの十階に頼和紀念館が創設されました。記念館の創設には、長らくタブーとされてきた日本統治時代の代表的な台湾作家とその時代の文学思想などを、正式に一般社会に紹介していこうという意義が込められています。1997年6月、賴和紀念館は、「和園」の向かいのビルの四階の現在地に移りました。
記念館には、頼和の手書きの原稿、一部の蔵書、遺物、字画(書)、年表、台湾文学に関する書籍などが所蔵されています。また日本統治時代の台湾作家、特に彰化地方の文人の文学や思想を再現するために、他の作家の原稿や文物などの関連史料も展示されています。研究者はもちろん、学生や一般の人もよく見学に訪れる場所です。

学びのポイント

「台湾新文学」と頼和

「新文学」とは、近代文学という意味です。漢詩・漢文のような古典文学・旧文学とは異なる新たな文学形式、つまり平易な口語で書かれ、近代的な意義を持つ文学を、新文学といいます。台湾の新文学運動は1920年代初期、日本統治時代の半ばから始まりました。1921年10月17日には、文化的啓蒙を目的とし、台湾民族運動の中心団体となる「台湾文化協会」が設立されました。開業医だった頼和は、文化協会に加入した後に理事に選ばれ、文化運動や社会運動に積極的に力をいれるようになりました。彼はまた台湾最初の政治団体「新台湾連盟」に参加しますが、1923年に治安警察法違反検挙事件(治警事件)のため、入獄することになってしまいました。そんな状況のなかでも、頼和は開業医のかたわら、漢詩人としても活躍しており、1925年から『台湾民報』でエッセイや小説、詩を発表しはじめ、新文学の創作に力を注ぎました。
1926年以降、頼和は『台湾民報』の文芸欄の編集者となり、多くの若い作家を抜擢しました。同時代の新文学作家に尊敬され、「台湾新文芸の園地の開拓者」、「台湾小説界の育ての親」、「台湾の魯迅」などと呼ばれました。戦後は、台湾新文学の父と称されるようになりました。

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頼和の文学と思想

台湾人は、日本統治時代を「日本時代」といいます。この時代は、台湾人が植民地支配を受けながら、「近代」的な生活を経験し始めた時代とも言えます。1894年に生まれ、1943年に死去した頼和は、人生のほとんどを日本統治下で生きました。日本統治下の学校で教育を受け、日本語も堪能だったにもかかわらず、頼和は、日本語で文学を書くのではなく、当時の「祖国」である中国の白話文運動に強い感銘を受けて中国白話文を模倣し、台湾語的な文体を用いて地域色の濃い台湾新文学を創作しました。こうした言葉や文字に対する執念は、植民地支配への一種の反抗ともいえるでしょう。
文学作品では、植民地支配を受けている台湾人が貧しい生活に苦しんでいる実態を暴き、 日本の植民地政策を批判する一方、「近代」というものが本当に台湾人に幸福を与えるものなのか、台湾人をどのように変えていくべきかを問い続けました。階級問題のみならず、作品の中にもつねに弁証的な書き方で、台湾人固有の「国民性格」、改造された民族性についての思考、または台湾の知識人の役目に関する自省の念 なども表しています。日本統治期の台湾文学には、「隠忍」と「反抗」という二つの思想がうかがえますが、この二つの思想は、台湾新文学の父である頼和の作品のなかにも深く刻み込まれています。

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彰化街仔

台湾中部に位置する彰化は、台湾の古典文学史において重要な漢詩人も多く輩出しています。日本統治時代の台中や彰化には、漢詩社が多く、たいへん活発な漢詩活動が行われていました。また、彰化市内の八卦山は、軍事戦略としてとても重要な場所であり、しばしば戦闘が起こりました。彰化はとても長い歴史を持つレトロな街です。1905年に建てられた彰化駅は、頼和紀念館まで徒歩で約10分。その周辺は、彰化街仔(Tsiong-huà ke-á)と呼ばれています。その地の人間風景や町の変化なども、頼和の作品によく見られます。 頼和紀念館は彰化街仔に建てられ、頼和文教基金会という組織が運営しています。頼和文教基金会は、地域文化の活性化に取り組みながら、全国の文化団体と連携し、台湾文化と台湾文学の教育にも力を注ぎ、若い世代の文化人材を育てることに努めています。
さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】日本統治時代 の台湾新文学運動の発展について調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】頼和紀念館(頼和医院)、八卦山大佛風景區、八卦山抗日烈士紀 念碑公園、孔子廟(聖廟)、高賓閣(鉄路医院)、中山国 小(小学校)、南山寺(元「小逸堂」)、頼和紀 念碑(「前進」の碑文)、元清観、公会堂、彰化県警察署、彰邑城隍廟などの位置関係を地図で確認してみましょう。
  • 【現地体験学習】 頼和文教基金会のメンバーと、地域活性化や現在の台湾文学に関する教育活動などについて話してみましょう。
  • 【現地体験学習】近くにある1895八卦山抗日保台史蹟館にも足を運んでみましょう。
参考資料
日本統治時代の台湾新文学運動については、河原功『台湾新文学運動の展開 日本文学との接点』(研文出版、1997年)、陳芳明『台湾新文学史』〈上〉(東方書店、2015年)に詳しい紹介があります。台湾文学の作品については、陳逸雄編訳『台湾抗日小説選』(研文出版、1998年)、山口守編著『講座 台湾文学』(国書刊行会、2003年)もおすすめです。 中国語や台湾語を少しでも読める方は、ぜひ頼和の作品を読んでみてください。林瑞明編『頼和全集(全六巻)』(台北:前衛、2000)、蔡明諺総編集『新編賴和全集(全五巻)』(台北:前衛、2021)などがあります。

(呂美親)

ウェブサイト
公式 http://www.laiho.org.tw/

(中国語)

所在地
彰化市中正路一段242号4F