1926年以降、頼和は『台湾民報』の文芸欄の編集者となり、多くの若い作家を抜擢しました。同時代の新文学作家に尊敬され、「台湾新文芸の園地の開拓者」、「台湾小説界の育ての親」、「台湾の魯迅」などと呼ばれました。戦後は、台湾新文学の父と称されるようになりました。
呂美親提供
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台湾新文学運動の重要な発祥地
「台湾新文学の父」といわれる頼和は、1894年に日本統治下の台湾中部・彰化庁線東堡彰化街市仔尾(Tshī-á-bué)に生まれました。本名は頼河で、字は癸河。また、懶雲、逸民、甫三、安都生、灰、走街先、浪、孔乙己などの筆名があります。1914年4月に台湾総督府医学校を卒業、1918年にアモイ鼓浪嶼の博愛医院に赴任しました。アモイ滞在時に、中国の白話文運動の社会への影響に深い感銘を受け、台湾に帰った後、台湾の新文学運動の代表的な担い手として活動するようになりました。
戦前は日本統治下、戦後は国民党政権下で 、台湾文学の発展は長期にわたって抑圧されました。1970年代の郷土文学論戦や1980年代の本土化運動、また1990年代の民主化運動を経て、ようやく1995年に、頼和の遺族が頼和医院の跡地に建てた「和園」ビルの十階に頼和紀念館が創設されました。記念館の創設には、長らくタブーとされてきた日本統治時代の代表的な台湾作家とその時代の文学思想などを、正式に一般社会に紹介していこうという意義が込められています。1997年6月、賴和紀念館は、「和園」の向かいのビルの四階の現在地に移りました。
記念館には、頼和の手書きの原稿、一部の蔵書、遺物、字画(書)、年表、台湾文学に関する書籍などが所蔵されています。また日本統治時代の台湾作家、特に彰化地方の文人の文学や思想を再現するために、他の作家の原稿や文物などの関連史料も展示されています。研究者はもちろん、学生や一般の人もよく見学に訪れる場所です。
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