中山公園時代を偲ばせる孫文(孫中山)の銅像(山﨑直也撮影)
市街地に緑をもたらす市民の憩いの場(山﨑直也撮影)
屏東公園
屏東公園
人々の日常に根差した憩いの場が映し出す台湾史の断層
屏東公園は、台湾鉄道の屏東駅から徒歩15分ほど、公園路、仁愛路、中華路という3本の通りに囲まれた場所にあります。日本統治時代の1902年に設置された同公園の敷地面積は2.3万坪(約7万6000平方メートル)、屏東市では屏東県民公園に次ぐ規模の公園緑地として市民の憩いの場となっています。周囲には、国立屏東女子高校、県立陸上競技場、県立体育館、県立美術館、屏東演武場(日本統治時代の1929年に建てられた武徳殿が2019年に改装され、芸術の展示・教育の空間となっている)が立ち並び、文教地区を形成しています。年末には屏東聖誕節(クリスマス)というビッグイベントのメイン会場として美しくライトアップされ、SNSでも話題になる人気のスポットです。
学びのポイント
屏東公園の前名:中山公園
この公園は1902年に台湾で最初期の市街地における公園緑地として設置され、1907年に正式に屏東公園と命名されました。以来、この公園は、日本統治下では現在と同じ屏東公園の名で知られていましたが、日本が戦争に敗れ、中華民国政府が台湾を接収すると、中山公園に改名されました。「中山」とは、中華民国の「国父」である孫中山こと孫文のことです。戦後、台湾の新たな統治主体となった中華民国政府は、50年間の日本統治の影響を取り除き、台湾を「中国化」するためにさまざまな策を講じましたが、日本式の町名や施設名を「中国」式に改めることは、その主要な策の一つでした。さらに、民主化を経て「台湾は台湾である」との主体性が高まった2000年代以降、「中国」的な名称を台湾的な名称に改める「正名運動」が展開され、この公園も2016年に屏東公園という本来の名称を取り戻すことができたのです。
屏東公園の別名:阿猴公園
1902年にこの公園の設置を命じたのは、桑原外助という日本人です。桑原の役職は阿猴庁長というものでした。清朝時代、この場所には外敵から街を守る城壁が築かれ、阿猴城と呼ばれていました。公園の中には、この阿猴城の東門(朝陽門)が残されています。清朝に代わって台湾の統治主体となった日本は、1901年の廃県置庁で台湾全土に20の庁という行政区画を設け、その際、この地の庁の名称を阿猴庁(後に阿緱庁に改称)としたのです。桑原は阿猴庁の初代庁長(1901〜02年)を務めました。阿猴とは、もともと平埔族(平地で暮らす民族の総称)のマカタオ族の村名の「アカウ」に、福建省から渡来した漢族が音の近い漢字を当てたもので、高雄という地名が「竹林」を表すマカタオ族の言葉に由来するとされることと同様です。
阿猴城の東門(山﨑直也撮影)
公園内に見られる歴史の断片
屏東公園の前名と別名は、台湾の歴史の複雑性と重層性を私たちに教えるものですが、園内には、移り変わってきた時代の名残がいくつも存在しています。例えば、公園内に残るコンクリート製の太鼓橋は、かつて公園の北側にあった阿緱神社の遺構です。台湾の「祖国復帰」を記念する光復紀念碑は、元は台湾で命を落とした日本の軍人や警察官のために1915年に建てられた忠魂碑であり、その題字は第5代台湾総督(1906-15年)の佐久間左馬太が揮毫しました。戦後、公園名を中山公園に改めたのと同じ意図で政府が「忠魂碑」の三文字を削り、新たに「光復紀念」の四文字を刻んだのでした。台湾で初めて行政が建てた二二八事件の記念碑もこの公園内にあります。1970年代までは石板屋と呼ばれる先住民族のスレート造りの建物が公園内にあり、台湾で巡回公演を行った李香蘭(日本名・山口淑子の日本人女優。戦前は中国人として活躍した)が1941年にここを訪れ、石板屋の前で撮影した写真が残っています。
かつて忠魂碑であった光復紀念碑(山﨑直也撮影)
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】戦後、中華民国政府が行った「中国化」と民主化後の「台湾化(本土化)」に起因する公共施設の名前の変遷について調べてみましょう。
- 【事前学習】【現地学習】台北市には、北門、東門、西門町、小南門という地下鉄(MRT)の駅がありますが、これらは阿猴城と同じように清朝時代に築かれた城壁・城門の名残です。台湾にはかつて城壁に囲まれた市街地が各地にありましたが、修学旅行・研修旅行で訪れる場所にどのような城壁・城門があったか、それは現在どのようになっているか、調べてみましょう。
- 【現地学習】屏東公園には日本統治時代に末廣稲荷神社が鎮座していた築山があります。その築山が現在どのようになっているか、現地で確認してみましょう。
参考資料
本稿で「中国」と括弧付きで表記しているのは、今日一般に中国と呼ばれる中華人民共和国のことではなく、中華民国政府を正統な政府とし、台湾海峡の両岸を含む想像上の「中国」のことです。日本の敗戦後、植民地であった台湾を接収した中華民国政府は、その後、国共内戦により中国大陸から台湾に移転することを余儀なくされましたが、蔣介石を領袖とするこの政府は、その後も長期にわたり、「大陸反攻」を合言葉に中華民国こそが「中国」の唯一の合法政府であり、台湾は「中国」の一部に過ぎないという立場を堅持しました。そうした中で、半世紀にわたる日本統治の影響を取り除き、台湾の人々を「中国人」として教化することが政府の至上命令となったわけですが、中華民国政府による「中国化」については、菅野敦志『台湾の国家と文化』(勁草書房、2011年)が参考になります。菅野の著作は、中華民国政府が台湾の「中国化」のために対内的に何を行ったかを詳細に論じたものです。戦後の中華民国政府が「大陸反攻」を謳って対外的に何を試みたかについては、五十嵐隆幸『大陸反攻と台湾 中華民国による統一の構想と挫折』(名古屋大学出版会、2021年)が参考になります。
- ウェブサイト
- 屏東県政府
https://www.i-pingtung.com/pingtungattractions/%E5%B1%8F%E6%9D%B1%E5%85%AC%E5%9C%92
(中国語)
- 所在地
- 屏東県屏東市公園路
- 特記事項
